インターネットが人生を腐らせる。

 先日の『情熱大陸』の一場面が話題になっている。

 このテレビ番組は毎回、各界の著名人の「情熱的な」人生のひとコマを切り取って見せてくれるのだが、前回、取り上げられたのは人気テレビゲーム『ファイナルファンタジー16』の開発者・吉田直樹だった。

 話題になったのは、吉田が『FF16』の開発途中でかれ個人に対する誹謗中傷を確認している場面だ。

 「見たことも会ったことも話したこともない人たちから罵声を浴びつづけているんですよ」とかれはいう。

 そして、そういった「罵声」や「中傷」の大半は日本からのものだというナレーションが入る。

 これに関連して、日本のインターネットでの誹謗中傷の激しさについてさまざまな議論が巻き起こった。

 日本の誹謗中傷はひどすぎるとか、いや、海外のほうがもっとひどいとか。

 しょせん明確に統計など取りようもない話だから、あまり生産性のない話ではあるが、この話題が盛り上がっているのはたぶん、最近のインターネットのギスギスした雰囲気が「さすがにひどいのではないか」という認識が広がっているのだろう。

 つい最近、人気芸能人が自死を選んだ背景にはネットでの誹謗中傷があるとされている。「いくらなんでもあまりにもひどい」と感じている人は少なくないのではないか。

 もちろん、ネットで中傷が行われるのはずっと昔から変わっていないといえばそうだ。

 しかし、以前はアンダーグラウンドなサイトでしか見なかったような残忍な中傷がいまではあたりまえに流通しているところを見ると、日本が特にひどいかどうかはともかく、やはりインターネットには重大な問題があると感じざるを得ない。

 ただ、じっさいのところ、中傷をなくしたり減らしたりすることはむずかしい。

 そういった「悪口」は主観的には「正当な批判」であり、もっというなら「正義の制裁」であったりするわけで、どこまでいっても話は噛み合わないからだ。

 「誹謗中傷をやめろ!」といっても、そもそも自分がやっていることが誹謗中傷であると自覚していない人が大半を占めているわけである。

 そのような状況を以下の記事ではこのように表している。

ただ、残念ながら、いくらこのような呼びかけしたところで、日本から「誹謗中傷」が消えることはないだろう。誹謗中傷している人は自分が誹謗中傷をしているという自覚はない。むしろ、相手の間違いを指摘して言動を正してやっている、くらいにさえ思っている。

 その通りだろう。ネットに溢れる誹謗中傷を生み出すのは、必ずしも純粋な「悪意」ではない。

 むしろ、「ゆがんだ正義」こそがさまざまな中傷の原因になっていることはネットを利用している人にとっては自明なはずだ。

 しかし、だからといってそこに「悪意」がないかといえば、そんなはずはない。表面的にはきれいな「正義」で隠蔽された漆黒の「悪意」こそが誹謗中傷の原因となっている。

 そもそも、人は自分の「悪意」を自覚しづらい。

 あなたはまったくの悪意から人を貶めたり攻撃したりした経験があるだろうか。こう訊くと、まず大半の人が「そんな経験はない」と答えるはずだ。

 しかし、外から客観的に見れば「悪意」としかいいようがない発言はネットに満ち満ちている。

 「正義の皮をかぶった、自覚のない悪意」。これがネットでさまざまな中傷が絶えないその原因であると思われるのである。

 いつも思うのだが、そういった「邪悪な」発言を行う人々は、自分をある種のダークヒーローとして位置づけているのではないだろうか。

 傍から見ればただの「いやな奴」であっても、自分のつもりでは世間の人間がとても口に出せないことを平気で書き込むことができる真実と毒舌のヒーロー。

 そういうふうに自己を認識している人は少なくないように思われる。

 まさに「中二病」的な思い込みなのだが、うーん、人間って「性格が悪い」ことと「頭が良い」ことを混同しがちなところあるよなあ。

 しかし、今回、ぼくが話したいのは「インターネットにあふれる誹謗中傷がいかに悪いか」ということではない。

 いや、それもいいたいのだが、それ以上に語りたいのは「ネットでゆがんだ正義感にかられて他人を中傷することは自分自身を腐らせる」という話である。

 べつだん、道徳的な話ではない。そうではなく、単なる理の当然として、他人を批判すればするほど自分自身が行動することはむずかしくなると思うのだ。

 ネットでは安全なところから一方的に他人を攻撃することができる。しかし、そうやって攻撃していると、必然として自分のほうが攻撃されることが怖くなる。

 他人を高みから責めれば責めるほど、自分が責められる立場に立つことが恐ろしくなるのである。

 そして、また、そうやって萎縮するとじっさいに行動を起こすことがむずかしくなる。

 単純なことで、人は一切何のアクションも起こさないかぎり無傷でいられるが、なにか行動を起こした途端、かならず失敗したり間違えたりするものだからだ。

 何もアクションしないがゆえに完璧な状況に慣れた人は、その「完璧さからの失墜」に耐えられない。だから、何も行動しなくなる。

 かれはその限りにおいて「失敗しない人生」を歩むことができるだろう。しかし、そうやってたどりつくのは、一生、何ら有効なアクションを起こせない無為な人生である。

 他人の失敗や愚かさを嗤い、嘲ることはたやすい。「こんなものたいしたことないよ」といい捨てることも、また。

 しかし、いったん現実にそれを実現させようとする立場に立つと、「たいしたことない」はずのその壁はなんと高いことか。

 安全なところから石を投げる快楽に溺れる人間ほど、そのきびしさから逃避するだろう。

 水は低きに流れる。人はより容易な、安楽なほうに流される。その結果として「正義をまとった悪意」に耽溺すればするほど、むなしく人生を空費することになる。

 考えてもみてほしい。大谷翔平や藤井聡太がネットに張りついて他人の悪口をいっているところを想像できるだろうか。

 かれらは他人の人生を批判して過ごすかわりに自分の人生で活躍している。

 ネットで高みに立って他人を誹謗する人は、いっとき、完全な正義を体現する万能感にひたれるかもしれないが、しょせん、それはむなしいかりそめの感覚である。

 かれらはどのような有名人でも一方的に断罪する無敵の裁判官のような存在になったつもりになることができるだろう。だが、その代償として人生のすべてを差し出さなければならない。

 そうやってインターネットは人生を腐らせるのだ。もちろん、ネットが悪いわけではない。どこまでも人間が悪いのに過ぎない。

 それはドラえもんから借りた万能のひみつ道具がのび太くんの感覚を狂わせることに似ているかもしれない。

 自分自身の人生の舞台に立ってだれかから非難と称賛を受けるか、それとも物陰から他者に石を投げて「自分だってあのくらいやればできるんだ」と思い込んで一生を終えるか。

 選ぶのは、ぼくたち自身である。

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