『Fate』シリーズを女性向け作品としてとらえ直す。

 このブログを読むような人にはいまさら説明をする必要もないかもしれないが、『Fate』シリーズに登場する剣の英霊セイバーことアルトリア・ペンドラゴンはとても人気のあるキャラクターだ。

 彼女の正体は少女でありながら男性としてアーサー王と呼ばれた人物であり、『Fate/Zero』、『Fate/Grand Order』などの姉妹編にもくり返し登場すること、また、彼女からさまざまな「アルトリア顔」のキャラクターが派生していったことからもその人気の高さはわかることだろう。

 アルトリアの物語は最初の『Fate/Stay night』、それもファーストエピソードでほぼ完結しているにもかかわらず、幾たびとなく彼女の姿をもつ人物が再登場させられることから、もはや彼女は一個のキャラクターを超えて『Fate』全体をシンボライズするアイコンと化している印象すらある。

 とにかく男性からも女性からも厚い支持を受ける少女なのだ。

 この、史実(というか伝説)では男性のキャラクターを女性として描写してしまうことはオタク的には「女性化」ないし「女体化」と呼ばれるパターンである。

 アルトリアを嚆矢として、のちの『Fate』シリーズではネロや源義経、沖田総司などさまざまなキャラクターが「女体化」されて賛否両論の評価を得ている。

 ぼくも長いあいだアルトリアをそういう「女体化」のキャラクターとして見ていたし、それが当然のことだと信じて疑わなかった。

 ところが、たまたまアーサー王を主題にした論考集である『いかにしてアーサー王は日本で受容されサブカルチャー界に君臨したか』を読んでいたら、アルトリアを「男装の少女」の文脈のなかに位置づける「女性アーサー王受容之試論 『Fate』シリーズを中心に」という文章と出会って驚き、また新鮮な印象を受けた。

 そう、あたりまえのことなのだが、アルトリアは「男装の少女」でもあるのだ。

 日本の少女マンガやファンタジー小説でたびたび登場する「男装の少女」ないし「男装の麗人」というキャラクターは、斎藤環がいうところの「戦闘美少女」をも含む「戦う女性」のひとつのバリエーションである。

 そして、そういったキャラクターが描写されるのは主に「女性向け」の作品なのであった。

 ぼくがアルトリアをその「男装の少女」の系譜のキャラクターとして見ることができなかったのは、『Fate』がアダルトゲームに端を発する「男性向け」のコンテンツであるというバイアスがあったからだろう。『FGO』あたりは何割かが確実に女性ファンなのに……。

 しかし、いまさらながらに考えてみれば、まさに彼女こそは男装の王女サファイヤ(サファイア)姫や、ばらの麗人オスカルの後継者といっても過言ではないのだ。

 いままでそのことにまったく気づかなかったのはうかつとしかいいようがない。

 ここでは、あらためてアルトリアと「男装の少女」たちを比較しながら考えてみたい。

 さて、この「男装の少女」の連綿たる系譜の輝かしい原点といえる作品は、いうまでもなく手塚治虫の『リボンの騎士』である。

【カラー版】リボンの騎士 1

 のちにマンガの神様とまで呼ばれることとなる天才作家の代表作のひとつでもあるこの長編は、色々なところで語られ、評価されている。

 いまの視点でこのマンガを読むとき、我々はまだまだ家父長制が幅を利かせる封建的な時代にみごとにジェンダーの越境を描き出した手塚の先見性とともに、その限界をも見ることだろう。

 ちょうど押山美知子『少女マンガジェンダー表象論 〈男装の少女〉の造形とアイデンティティ』という本が(なぜか)手元にあるので、そこから引用すると、サファイヤは男性の姿を取って戦い、あたりまえの少女のレベルをはるかに超えて活躍するが、それでも彼女の内面は少女のままでなければならないキャラクターである。

 『リボンの騎士』で描かれたサファイヤの〈性別越境〉において、サファイヤの〈内面〉的女性性は身体的女性性とともに変化してはならない、守られるべきものとして聖域化されたと言って良い。それは〈内面〉的女性性を、身体的女性性によって規定される、身体的女性性と不可分のものと見なすことであったと言い換えることができよう。「やさしい」もしくは「しとやか」という言葉に代表され、男性に比べ知的に劣る〈内面〉的女性性は、女性であるサファイヤにとって必要不可欠なアイデンティティとして絶対視され、〈男装の少女〉サファイヤには、この抑圧された「女の心」、つまり〈内面〉的女性性の解放が当然のように求められた。非対称のジェンダー・カテゴリーをそのままに受容してしまう、〈男装の少女〉サファイヤを描いた本作品における〈性別越境〉には、そもそもこの非対称を覆そうとする方向性はなかったと考える方が妥当であろう。

 つまり、サファイヤは「身も心も男性に〝変身〟するのではなく、心身とも軸足は女性に置いたまま〝変装〟レベルで〈男性〉に成り代わる」キャラクターなのであって、その「性別越境」は限定的なものであったということになる。

 もちろん、時代性を考えればそれでも十分に画期的なことではあったのだろうが、同時に明確な限界を抱えていたわけだ。

 ここに、ある種の保守性を見て取ることはむずかしくないだろう。少女の姿から少年の姿に変わり、男の子として戦うサファイヤは、その後も続いていくことになる「男装の少女」の問題点を内包したキャラクターでもあったのであった。

 そして、サファイヤからひき継がれた「性別越境」の可能性は、その後、70年代に至ってもうひとりの人気キャラクターを生み出す。

 いうまでもない、『ベルサイユのばら』のオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェである。オスカルはおそらくは日本のマンガ史上、最も有名で人気の高い男装のキャラクターだろう。

 女性でありながら男の身なりに身を包んでフランス王家の忠実な家臣として生き、最後には革命に斃れる男装の麗人――いまの目で見ても、やはりきわめて魅力的な性格設定である。

 おそらくこの作品の影響から、フランス革命といえば「オスカルさま」という人も『ベルサイユのばら』の連載開始からじつに半世紀以上を経た現在ですら少なくないはずだ。

 オスカルの魅力はどこにあるだろう? 彼女はあきらかにサファイヤ姫の限界を乗り越えてその「男性性」が「内面」にまで及んだ設定である。

 オスカルはその時代のフランスの女性としてはあまりに凛々しく、すらりとして格好良い。

 設定上、女性であることはまちがいないのだが、どうしても「中性的」という言葉で表したくなるようなところがある。

 なまじの男性ヒーローの魅力はオスカルをまえにしては霞んでしまう。現代の目で見てすらそうなのだから、発表当時はどれほど画期的な造形であったのか、ほとんど想像もできない。

 『きのう何食べた?』などの作品で知られる人気漫画家のよしながふみは、デビュー前には『ベルサイユのばら』の同人誌を作っていたという。

 おそらく、その影響が『大奥』(これも「男装の女性」の物語だ)を生み出したのだろう。

 とにかく、「オスカルさま」は今日の目で見てもなお非常に美しい。

 さまざまなレイヤーでジェンダーの限界を突破する彼女の活躍は、当時の少女読者たちにはきわめて新鮮なものと映ったに違いない。

 さて、ここでいったん少女マンガを離れてファンタジー小説に目を向けると、栗本薫の『グイン・サーガ』やひかわ玲子の『エフェラ&ジリオラ』シリーズ、あるいは小野不由美『十二国記』という、いずれも女性作家の手になる作品のなかに「男装の少女」が発見できる。

 それぞれ性格は異なるが、ここでは『グイン・サーガ』の「男装の少女」たちに注目してみよう。

 ちょうどここに(なぜか)都合よく髙橋準『ファンタジーとジェンダー』という本があるのだが、そこで書かれていることによると、『グイン・サーガ』にはリギア、オクタヴィア、アムネリスという三人の「男装の麗人」が登場する。

 いずれも出てきたときにはなかなかに魅力的なキャラクターに見えるのだが、同時にその描写は明確な限界を抱えてもいる。

 このことについてくわしく書きはじめると長くなり過ぎるので適当に割愛するが、ぼくは『グイン・サーガ』における「男装の麗人」の描き方にはっきりと不満がある。

 リギアにしろ、オクタヴィアにしろ、アムネリスにしろ、出てきたときにはなかなかに魅力的なキャラクターであるように思われるのだが、すぐに失速してしまう。

 これは同じく「男装の少女」を描いた『パロスの剣』などにしてもそうなのだが、栗本の女性描写には「あくまで女は女でしかない」というバイアスが見て取れるように思われてならない。

 それは『グイン・サーガ』という稀代の名作のひとつの欠点であり限界であり、惜しむべきポイントであるように思われる。

 たとえば、初めイリスを名乗って登場する「男装の少女」オクタヴィアは、男の姿でケイロニア帝国の帝冠を狙うが、主人公のグインに女として生きるよう諭され、結局はただのあたりまえの女性として生きることとなる(別作家の手になる続編ではケイロニアの女帝となっているようであるけれど)。

 ぼくはこの種の描写を見ていると、どうしても物足りなさを感じてしまう。

 あえていうならここにあるものはやはり性差別的な偏見であり、ミソジニー的な偏見の発露であるように思われてならないのだ。

 もちろん、時代の限界もあることだろうし、単に栗本ひとりを責めても始まらない。

 だが、サファイヤから始まった「男装の少女」のキャラクターは、ここでもひとつの「ジェンダーの壁」にあたって砕けてしまっている印象はぬぐえない。あからさまな限界があるのである。

 それはアニメ、マンガの『少女革命ウテナ』などではおそらくは意識して突破されている印象があるもので、栗本の「男装の少女」像は「男装の少女」全体の問題を考えさせるものがある。

 さて、このような「男装の少女」のさまざまなキャラクターを踏まえた上で、あらためてアルトリアを見てみよう。

 いま、「男装の少女」の長い系譜のなかにあらためて位置づけ直すとき、アルトリアの造形が決定的に新しいと思えるのは、彼女が「亡国の王」であるという一点である。

 みずから王として君臨する国を苛烈な執政のために滅ぼしてしまい、そのことを悔いて万能の〈聖杯〉によるやり直しを求めるという過去の設定は、彼女の性格にきわめて複雑な陰翳を刻んでいる。

 先述のオスカルや、田村由美『BASARA』の主人公・更紗など、政治や軍事にたずさわる「男装の少女」は過去にいないわけではない。

 しかし、ただひとりで一国を背負い、ついには滅ぼしてしまったというアルトリアの過去の重さはやはり圧巻である。

 オスカルや更紗があくまで「革命家」であり、反体制派であることと比べると、そのキャラクターの特色がわかるだろう。

 『十二国記』の陽子も王ではあるが、アルトリアのような「亡国の悲哀」を背負ってはいない。

 アルトリアは「男装の少女」のヒストリーのなかでまったく新しいキャラクターであるといえそうだ。

 もちろん、もともと彼女はそのような「女性向け」の文脈で生まれたキャラクターではないだろう。

 しかし、『Fate』には多数の女性ファンも存在している。それらの人々は、数多くのヒーローたちと伍して対等に戦うアルトリアの姿に強烈な魅力を感じ取ってはいないだろうか。

 『Fate』のジェンダー描写を、フェミニズム的とはいわないまでも批評的な観点から見ると、当然、そこには「男性向け」であることからの限界も、色々とあることだろう。

 しかし、考えてみると、アルトリアの造形にはたいていの「女性向け」作品のヒロインたち以上に、女性を惹きつけ、エンパワーメントすらするものがあるのではないかとも思えることもたしかである。

 元々は「男性向け」のアダルトゲームであった『Fate』を「女性のための物語」として見直すと色々と見えてくるものがある。

 また、そこには「戦う女性」のテーマが大きく関わっていることだろう。

 斎藤環は『戦闘美少女の精神分析』で「戦闘美少女」をあくまで「男性のための」造形として整理しているように見える。

 しかし、そのように単純に切り分けてしまって良いものだろうか。

 『美少女戦士セーラームーン』や『プリキュア』シリーズを経て、いま、「戦う女の子」のキャラクターは「戦闘美少女」の限界を超えて成長しているように思われる。

 そこには、この社会で生きる多くの女性たちをエンパワーメントする可能性が秘められているのではないだろうか。

 そこで「男性向け」とか「女性向け」という区分を持ち出してしまうと、見えなくなるものがたくさんあるのかもしれない。そう思う。

 「戦う女の子」に関してはこの記事では書き切れていないことがまだまだたくさんあるが、ひとまずはここで筆を置こう。

 この記事のタイトルは「『Fate』シリーズを女性向け作品として読み直す」となっているが、もちろんこれは女性「だけ」のための作品を意味しない。

 真にすぐれた物語はジェンダーの垣根を超えて読まれるものである。『Fate』もまた、そのような作品のひとつなのではないかと、ぼくは考えるものだ。

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