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 第五章「物語は「神なるもの」をどう描いて来たか」

 少しでも伝えたくて 傷む心が
 どんな経験しても やっぱり迷うのよ
 この世であなたの愛を手に入れるもの
 踊るライト見つめて忘れない ahh 謎がとけてゆく 小松未歩「謎」

 ①「SF小説に見る宗教性と反宗教性」

 ここまで、上巻収録の各章において、オタク的なスピリチュアリティの色々な形を、既存の文化などと比較して見てきました。

 この第五章では、エンターテインメント小説において、作家たちが「神なるもの」をどう描こうとしてきたのか、その点について記しておきたいと思います。

 さて、「神なるもの」とは何でしょうか。

 端的にいって、それは「描けないもの」です。

 もちろん、ポップカルチャーのエンターテインメント作品においては、無数の「神さま」が登場します。

 有名な例として、たとえばクトゥルー神話が挙げられるでしょう。

 H・P・ラヴクラフトが創始したこの「神話体系」においては、クトゥルーやニャルラトホテプといったさまざまに異質な「神々」が出て来ます。

 しかし、どれほど想像力の限りを尽くして描写しようと、こういった神々は、具体的に描写されているために、キャラクター化をまぬかれません。

 人間的なるものをはるかに超越し、想像を絶した存在であるはずの邪神たちもまた、何十年も経つうちに、何と「萌えキャラ」にすらされてしまうのです。

 こういったキャラクターは有限にして具体的であるが故にほんとうの意味で「神なるもの」を体現することが不可能なのです。

 「神なるもの」は人間の理解を超越しているからこそ「神なるもの」なのであって、人間には描写できない。そういう、ある種、矛盾した存在です。そのため「描かずに描く」ことが必要になります。

 「描かずに描く」とはどういうことでしょうか。それは「描けること」の限界に挑戦する行為です。

 小説家の乙一に『くつしたをかくせ!』という絵本があります。

 クリスマスにサンタクロースからの贈り物を防ごうとくつしたを隠そうとする子供たちを描いた物語なのですが、いつのまにか全員の靴下に贈り物が入っていたというところで話は唐突に終わります。

 いったいどうやってサンタクロースがそれぞれの靴下に贈り物を入れたのか、その具体的手段はまったく描かれないのです。

 まるで一種の推理小説的な「密室トリック」のようですが、もちろんその謎がロジカルに解き明かされることはありません。

 サンタクロースはありとあらゆる現実的な論理を超えた超越者であり、かれが靴下に贈り物を入れた方法は「神のトリック」としかいいようがないのです。

 より重要なこととして、この絵本のなかにサンタクロース本人は登場しません。

 サンタクロースはただ、ありとあらゆる法則を超越して奇跡的な贈与を行う「ページの外」なる存在としてだけ描かれます。

 この場合のサンタクロースはあきらかに神の暗喩なのです。これが乙一なりの「描かずに描く」ことなのでしょう。

 神はこのような手段を取って初めて物語のなかに降臨します。

 それでは、たとえばSF小説ではどうだったでしょうか。

 サイエンス・フィクションは「科学」を根底とした小説です。その進歩主義的、科学礼賛的な世界観において、しばしば宗教やオカルトは乗り越えるべき過去の遺物、人間の愚かしさの象徴とみなされます。

 人間はどこか非合理的だから宗教など信じるのであって、真の合理精神に到達したらそのような蒙昧な思想がはびこったりしない、そのように考えているとしか思われない作品に出逢うことはしばしばです。

 その種の反宗教的な思想を代表するSF作家として、アーサー・C・クラークやジェイムズ・P・ホーガンが挙げられます。

 特にクラークはSFの歴史を代表するきわめて優れたハードSF作家です。

 かれは決して宗教を端的に否定しているわけではありませんが、一貫して宗教の「非合理的な」精神に対して批判的な態度を取ります。

 その意味では、先述のドーキンスに近いといって良いでしょう。

 たとえばその代表作のひとつ『楽園の泉』では人類とコンタクトを遂げた異星人が「神」という概念は人間の、というよりある種の知的生命体に特有の空想であることを暗示する展開があります。

 そこには宗教者への皮肉と、いくらかその文化をかるく見る視点があるのです。

 ただ、クラークがドーキンスと違うのは、必ずしも宗教者が愚かな凡物として描かれているわけではないことです。

 たとえば『海底牧場』には知的な仏教者が登場し、重要な役割を果たします。

そういうわけで、決してかれは宗教を全否定して良しとしたわけではないのですが、全体的に見て、宗教に対し批判的であったことは疑いない事実です。

 クラークにとってまず信じるに値するのは理性であり、その理性の結晶としての科学でした。

 そのクラークが「宗教的な」モティーフを流用した異色作が『幼年期の終り』です。これはひとつクラークの代表作であるのみならず、すべてのSF小説のなかでも伝説的といって良い作品でもあります。

 あるとき、地球上のすべての大都市の上に、なぞめいた異星人「オーバーロード」の宇宙船群があらわれます。

 かれらはその超絶的な科学力で人類社会を支配し、管理し、善導します。かれらは地球を征服に訪れたのではなく、人類に楽園時代をもたらすためにこそあらわれたのです。

 いったんは、そう見えました。ところが、数十年にわたる「オーバーロード」の統治の末、ついにかれらが姿をあらわしたとき、驚くべき事実があきらかになるのです。

 何と「オーバーロード」の外見は、神話にある悪魔そのものだったのでした! そしてここにほんとうの人類の「幼年期の終り」が始まるのです――。

 何ともキリスト教的な物語といえるでしょう。

 しかし、もちろんクラークは現代に聖書の物語をよみがえらせようとしたわけではありません。

 むしろ、それを合理的な解釈によって修正しようとしているというべきです。

 ここで『幼年期の終り』はきわめてトリッキーなロジックをもちいて「オーバーロード」たちの正体を描き出します。

 何と、一万年もまえに「オーバーロード」たちは人類のまえに姿をあらわしたことがあり、そのときに終末の時代への予感として残された「未来の記憶」が「オーバーロード」を悪魔として描き出していたのです。

 何という逆転の発想でしょうか。

 その超絶の展開には唖然としてしまうほどなのですが、『幼年期の終り』はこの先にさらに驚くべき顛末を用意しています。

 人類に十倍し、おそらくは百倍するとすらいわれる高度な知能と、魔法的な文明を持つ「オーバーロード」たち、宇宙の覇権種族ともいうべき「オーバーロード」たちですら、じつは絶対の支配者ではないのです。

 クラークはカレルレン、ストルムグレンといった名前を持つ「オーバーロード」たちのさらなる上位存在として「オーバーマインド」を描きだします。

 「オーバーロード」たちは「オーバーマインド」の命により、人類に幼年期の終りを迎えさせ、「オーバーマインド」に加えさせるためにこそ地球を訪れていたのです。

 悪魔を束ね使役するものといえば、それは神なのではないかという連想が働きますが、そういうわけでもないらしい。

 ただ、それは宇宙の各地で種としての幼年期の終りを迎えたさまざまな種族の集合意識であり、宇宙的規模の進化の頂点なのです。

 「オーバーロード」自身は「オーバーマインド」となる資格を備えていません。

 かれらは優秀な産婆ではあるが、それにもかかわらず進化の袋小路に入り込んでいて、それ以上変わることができないのです。

 そうして最後の物語が始まることになるのですが、それにしても何という神話的なスケールのSF小説であることでしょう。

 わずか一冊でまとめたことも含めて、クラークの非凡な才能が実感できます。

 かれはここで人類と地球の最後、そしてそれをも超えてさらに進化していく人類という、まっとうな理性を超越しているとも思われる神話的な光景を描写してのけています。

 しかし、クラークの共感はやはりあくまで知的に破滅的光景の観察をつづける「オーバーロード」にあるのでしょう。かれはこのようなスーパーナチュラルな物語にあってなお、あくまで理性にこそ信を置くのです。

 SFミステリの傑作『星を継ぐもの』のジェイムズ・P・ホーガンや次の節で話す山本弘などは、このクラークの系譜に連なる作家であるように思われます。

 かれらの思想はドーキンスに近く、科学を超えたものを認めません。その「神」への対峙のしかたはそれぞれですが、総じてクラークに比べると品がないように思われます。

 「神なるもの」をテーマにしたSF小説は他にもあります。たとえば、山田正紀の『神狩り』では、人類とは論理認識能力の階梯が異なる超越存在、「神」なる存在と対決します。

 また、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』では、長い長い放浪の末、人類文明の始まりと終わりを見たあしゅらおうが、「この宇宙の外」にいると思われる何者かの声を聴きます。

 いずれの作品でも、「神」が直接的に描かれることはありません。これらの作家たちはそのSF作家としての矜持と才能によって、「神」とはダイレクトに描き出せるものではない、ただ間接的にのみ描くことが可能となることを知っていたのでしょう。

 そのようにして、無数の「神学SF」が描かれてきました。それらは、SF小説としてきわめて特異であるように思われますが、その実、SF小説の王道をいく内容です。

 「神」は科学では補足し切れない超越存在ですが、だからこそSF作家たちの想像力を刺激するのです。

 山田が『神狩り』において「描けないものを描くこと」に挑戦し、その結果、衝撃のデビューを飾ったことはSF界では伝説的な話です。

 SFの神は、ただ信じるものではなく、見上げ、そしてやがて挑んでいくべき対象としてあるように思われます。

 ②「科学合理性の魅惑と限界」

 先に名前を挙げた山本弘もしばしば「神」と対決してきた作家です。

 山本はいわゆるオタク第一世代に属する作家で、「と学会」会長として「トンデモ本」批評をくり広げるかたわら、いまに至るまで多数のSF小説を残しています。

 そのなかでも、自身が最高傑作と認めるのが『アイの物語』です。『アイの物語』はいくつもの興味深い問題を抱えた作品です。そのすべてが作家・山本弘の根幹に直結しています。

 先述したように、山本はクラークやホーガンといった比較的オプティスティックな作家たちの理性至上主義の伝統を受け継いでいます。

 かれはしばしば「論理的/非論理的」という区分で言説や作品を論じますが、それはかれの理性や論理に対する絶対的な信頼が表れているように思われます。

 しかし、同時に、時代的にクラークより後の世代に属する山本の理性至上主義は必然としてねじくれています。

 かれはもはや人間が理性を通して「良き時代」を生み出すことを信じられないかに見えます。

 その必然的な結果として『アイの物語』で主役となるのはマシン(ロボット)です。

 かれはマシンが語る七つの物語を通して、人類の衰退とマシンの発展のストーリーを紡いでいきます。

 つまりは、山本はどこまで行っても「非論理的な」人間には愛想が尽きているのかもしれません。

 しかし、人工知性であるマシンなら「論理的に」存在しつづけることができる。そう考えているのではないでしょうか。

 クラーク流の理性礼賛は山本においてねじくれながら研ぎ澄まされています。ここで山本は理性に限界を抱えた不完全な種族としての人類と、完全な理性を備えた種族としてのマシンを比較しているのです。

 いたって当然ながら、「論理的な」マシンはますます繁栄し、「非論理的な」人類は衰え滅びていくという、シニカルとも、ペシミスティックとも受け取れる結末が待っています。

 これは山本にとっては考えられる最高のハッピーエンドなのかもしれません。しかし、わたしはどうしてもうまくこの物語を受け入れることができないのです。

 そもそも完全な理性、一切の誤謬を犯さない知性などというものがありえるでしょうか。わたしはかなり疑問に思うのです。

 もちろん、ただ単に一定のプログラムに従って動くコンピューターだというならわかります。

 ですが、『アイの物語』に登場するマシンは、ひどく人間的に思えることに「愛」すら理解しているらしいのです。

 いったい、理性と愛が高いレベルで両立することがありえるでしょうか? 純粋に理性的であるのなら、どこかで愛は放擲しなければならないのではないでしょうか?

 わたしにはそう思えます。

 山本は理性と愛を両立させたマシンを描き出すにあたって、ひとつのSF的アイディアをもちいています。

 マシンたちは語尾に「i」という語をつけることによって、感情的衝突を避けることができるのです。

 しかし、この「i」が具体的に何を表していて意味しているのか、それはだれにも(もちろん作者にも)わからないのです。

 この「i」は人間には意味を理解することができないとされているからです……。

 このアイディアはいかにもごまかしじみていて、「愛」と「理性」の衝突を避けるためにうまく利用されているように思われます。

 ですが、ともかく「理性の担い手」として、人間ではなくマシンを選んだことは、アシモフのロボット・シリーズに一脈通じ、そしてさらに踏み込んだ展開といえるでしょう。

 そういうわけで、山本はこの『アイの物語』で理性至上主義の極北を示すのですが、個人的にはまったく納得がいきません

 。そもそも理性的であること、倫理的であること、あるいは「論理的」であることが生き物として、種としての「正しい」姿だとはわたしにはとても思えないのです。

 理性的に、「論理的」に生きるとはどういうことでしょうか。自分の利益を最大の目標として捉え、そのための理屈に合った行動しか取らないことでしょう。

 山本は、そのようにして「エゴイスティック」に生きれば、必然的にモラルに沿った、協調をむねとする生き方を選ぶことになるという意味のことを『サイバーナイト』や『詩羽のいる街』でくり返し描いています。

 しかし、わたしは「(利益を追求するエゴイズムの作法としての)論理」と「倫理」が常に一致するとは信じられません。

 「論理」を追い求める以上、「倫理」を犠牲にしなければならないような場面はいくらでも想定できます。

 逆に「倫理」を優先するなら「論理」を捨てなければならない場合もあるでしょう。いずれにしても、十分に知的に、「論理的」に生きれば自然、素晴らしい生き方になるとは幻想であるように思われてなりません。

 なぜでしょうか。

 答えは単純です。わたしたちが十分に知的で理性的に生きたとしても、世界のほうがでたらめにできているからです。

 世界は人間が考え出した常識や倫理には従いません。

 たとえば、だれよりもまじめに交通ルールを守っていても死亡事故に遭うことがありえるように、そしてだれよりもいいかげんにルールを無視していても平気で生き延びることがしばしばありえるように、世界はほんとうにめちゃくちゃにできている。

 あるいは、人間がそう感じるように作られている。したがって、理性的に、「論理的」に生きることが人間にとってつねに最善だとは限らないのです。

 さらにいうなら、倫理的に生きることはまったく理性的とはいいがたい可能性があります。

 フィリッパ・フットが提唱した「トロッコ問題」ではないけれど、自分の利益を優先するなら倫理を捨てなければならないような場合、わたしたちはどちらを選ぶべきでしょうか。

 自分の利益でしょうか? 公的な倫理でしょうか? いずれを選択することが理性的で「論理的」な選択のでしょう?

 山本の作品ではめったにこういったシリアスな問題提起は行われませんが、例外的に山本が深刻な二者択一の領域にまで踏み込んだ作品として、たとえば『サーラの冒険』があります。

 この物語のなかで、ヒロインは、恋人である主人公の命を救うために友人の少女を犠牲にしなければならない局面に出くわします。そして、そのとおりにするのです。

 まさに「論理」に従って「倫理」を取捨した場面といって良いでしょう。

 わたしはここを読んだとき、非常にわくわくするものを感じました。ついに山本が型通りのロジックでは処理しきれない哲学的な問題に踏み込んだかと考えたのです。

 しかし、じっさいには続く物語において、この問題はなし崩し的にハッピーエンドへとつながっていきます。

 奈須きのこが『Fate/stay night』の一章において、あくまでヒーロー(正義の味方)であることと、個人を救済することは両立しえないという原則を崩さなかったこととは対象的な詰めの甘さ。

 同様に、『アイの物語』におけるマシンたちの「論理」も、いかにも甘ったるい、都合の良いものでしかありません。

 「論理」を最大に重視するマシンたちが「愛」と「論理」が対立したとき、具体的にどのような選択を行うかはまったく描かれないのです。

 したがって、その「論理」はどこまでいっても試練にさらされたことがない欺瞞の論理に留まります。

 つまりは、理性を標榜するドーキンスの理屈がちっとも理性的でないのと同じく、論理を掲げる山本のマシンたちもとくべつ「論理的」であるようには思われないのです。

 そう、山本弘を読むとき、わたしはドーキンスの無神論にも一脈通じる理性至上主義の欺瞞を感じ取らずにはいられません。

 山本の論理には自分の理性の限界に対する謙虚さが欠落しています。

 かれは(自分にもそれが備わっていないことは認めるにせよ)、もし「完全なる理性」があれば必然的に正しい答えが出て来るものと考えているようにしか見えません。

 しかし、それ自体が「神」ではなく「理性」を神棚に祀るたぐいのひとつの信仰にしか過ぎないのではないでしょうか。

 くり返しますが、理性的であることと倫理的であることは同一ではありません。理性的に考えれば常に倫理的に振る舞うことが最善であると答えが出るわけではないのです。

 理性的に、あるいは合理的に考えれば考えるほど、倫理的な振る舞いがふさわしくないと答えが出る場面はいくらでもありえます。

 クラークやホーガンや山本の理性至上主義は、それ自体がスピリチュアリティを欠いたひとつの信仰(科学教? 理性教?)であるに過ぎないのではないでしょうか。

 似たような特徴を持つSF作品に、たとえばグレッグ・イーガン「祈りの海」があります。

 ここでは、ある文化における宗教が、単なる麻薬物質的な依存に過ぎなかったことが示されます。そこにはクラークや山本のような反宗教的な理性礼賛主義とはいわないまでも、宗教文化全般に対する冷めた視線があります。

 しかし、イーガンはあくまで懐疑主義的に宗教を相対化してみせるに留まり、「科学教」礼賛には走りません。現代的な作家です。

 また、そういった「非宗教的」な次元に留まり、理性を貫徹しようとするSF小説の極北として、スタニスワフ・レムの作品、特に『ソラリス』を挙げておきたいと思います。

 なぞめいた惑星ソラリスにおける「知性を持つ(らしい)海」とのコミュニケーションならぬディスコミュニケーションを描いて読者を圧倒する『ソラリス』は、あらゆるSF小説のなかでも最高峰の傑作です。

 また、ファースト・コンタクト・テーマの最高傑作とされる『天の声』でも、レムは「異質なるもの」との極限の対話を描いきました(いや、それはほんとうに対話なのでしょうか? 一方通行的に受け止めているだけなのではないでしょうか?)。

  レムは徹底的に異質で不可解な知性を描写しながら、それを単に「神なるもの」として切断処理することをしません。

 どこまでも「異質なるもの」は「異質なるもの」として残存し、人はそこに困惑しながらも立ちすくむのです。

 レムが映画版ではるかにセンチメンタルとも受け取れる結末を用意したタルコフスキーと大喧嘩したのは有名な話です。

 かれはあくまで理性の側に立ちます。ただ、その価値を無条件に信じたりはしないようです。

 ③「後期クイーン問題と神」

 この章の第一節と第二節では、SF小説における「神なるもの」について語ってみました。この第三節と続く第四節では、ミステリ小説における「神」について話してみたいと思います。

 ミステリと「神」。あまり関係がないように思われるかもしれません。ですが、ここにミステリを通して紛れもなく「神なるもの」と対峙したひとり(より正確にはふたり)の作家があります。

 エラリイ・クイーンです。

 一般に、クイーンは知的なパズルとしての探偵小説の頂点を示す作家として知られています。

 ドイルやチェスタトン、ヴァン・ダインといった先人たちの作品を受けてミステリを進歩させた偉大な作家であり、ある意味ではパズル的な推理小説を「完成」させた人物といっても良いでしょう(じっさいにはふたりの作家の連名です)。

 ですが、その一方で特に後期のクイーンは「パズル崩壊(法月綸太郎)」の作家でもあり、自ら作り上げてきた世界を「崩壊」させることでミステリ小説をさらに先へ進めたともいえます。

 その意味で、クイーンのある時期の作品は「神学ミステリ」と呼ぶのがふさわしいでしょう。

 そのクイーンの「神学ミステリ」を代表する小説が『九尾の猫』です。奇妙なタイトルの作品ですが、ニューヨークの町を舞台に探偵エラリイと殺人鬼の追跡劇を描き出した「ミッシングリンクテーマ」の傑作です。

 この物語のなかで、エラリイはなぞの犯人が殺害する被害者の共通項(ミッシング・リンク)を探しつづけます。いくつも仮定のピラミッドを建て、事実と照応しては崩すプロセスが続きます。

 前作『十日間の不思議』で大きな挫折を経験し、探偵をやめることを考えているこの作品のエラリイはかつてないほど真剣です。かれの推理ひとつにかかっているものはほかならない人命であるのです。

 しかし、今回、推理を組み立てるための物証は少なく、エラリイのロジックは、どこまでロジックといって良いものか微妙にならざるを得ません。

 それでもエラリイは推理を続け、論理の塔を積み上げては崩し、少しずつ真実ににじり寄っていく。そして、最終的に真相にたどり着いたとき、かれはついに「神なるもの」と対峙するのです。

 その衝撃。

 聖書の一節が引用され、太陽をめざしたイカロスのごとく神に近づいた探偵の傲慢が指摘されます。

 ここでエラリイは「人間の限界」と向き合わざるを得ません。そう、クイーンが「神学三部作」を通して描こうとしたものは「神」なのです。

 この『九尾の猫』や、その他の作品において、クイーンが描きだそうとした問題を、作家の法月綸太郎は「後期クイーン問題」と呼びます。それはまさに人知の限界に挑む名探偵の問題です。

 後期クイーン問題には、ふたつの問題があるとされています。ひとつは「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」です。

 これは推理小説の技法が発達してきたことから必然的に生まれた問題です。『ギリシャ棺の謎』に代表されるクイーンの作品では、しばしば見せかけの犯人は「真の犯人」によって操作されていたという展開が描かれます。

 ミステリ用語でいうところの「あやつり(マニピュレーション)」です。

 この「あやつり」はどこまでもメタ的に退行しつづけることが可能であり、真犯人を決定することは不可能であるという結論が出るといいます。

 この理屈には批判もあるようですが、本書の眼目ではないので、その点については触れないでおきましょう。

 そして、もうひとつが「作中で探偵が神であるかのように振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」です。これこそは「神学ミステリ三部作」を通してクイーンが描き出した「探偵の敗北」の背景にあるテーマです。

 『十日間の不思議』と『九尾の猫』のふたつの作品において、エラリイはその天才を駆使して真相を推理した末に失敗し、挫折し、自らの傲慢と限界を思い知らされます。

 そして、かれは「神なるもの」をまえに膝を屈したかにも見えます。じっさいにエラリイがそのように思ったのかどうかは『九尾の猫』には描写されていないのですが、名探偵エラリイ・クイーンのファンにはショックな描写です。

 これをどう受け取るか。

 三部作ですから、クイーンはこの『九尾の猫』、『十日間の不思議』ののちに『第八の日』という小説も書いています。

 これは最近、日本でも少し注目を集めたアヴラム・デイヴィッドスンの代筆であるらしいのですが、エラリイの彷徨はここでひとつの答えを得ます。

 もっとも、「探偵と神」の問題は解決したとはいえないでしょう。答えははるか遠く、すべては不明快です。

 しかし、それでもクイーンの「神学ミステリ」はそのかつてない深遠なテーマで読者を圧倒します。それはあたかもレムの『ソラリス』や『天の声』において、「異質なるもの」との対峙が「人間の限界」を指し示したことを思い起こさせます。

 人間の知性には必然的に限界がある。どこまでいっても「神の領域」には手がとどかない。作家たちはその限界を明示することによって、逆説的に「神なるもの」を示すのです。

 また、わが日本において、この『九尾の猫』から直接的に影響を受け、そのテーマを完遂しようとし、挫折したのが法月綸太郎の『ふたたび赤い悪夢』です。

 この作品では前作『頼子のために』で探偵としての限界に至り、絶望した名探偵・法月綸太郎の彷徨が描かれます。

 その姿はまさに『九尾の猫』のエラリイ・クイーンそのものなのですが、『ふたたび赤い悪夢』は『九尾の猫』のような整然とした傑作とはいいがたいでしょう。

 法月自身、SF作家の瀬名秀明との対談で、この小説がテーマ的に未完遂であることを認めています。「探偵の神との対峙」というテーマを完全に消化しきれていないため、何か混沌とした作品になってしまっている印象です。

 しかし、わたしはこの『ふたたび赤い悪夢』が何とも好きです。たしかに端正なロジックを基盤とする本格ミステリとしては惨憺たる失敗作というしかないのですが、何か異様な迫力を備えた作品だと感じます。

 そこで描かれているものは、「悩める探偵」としての法月綸太郎の姿です。かれはいわば人類全体を代表して神との対話を続けているのです。

 その宗教的な態度は、通常、考えられるミステリ小説とはまったく異なっています。

 ある意味で、『ふたたび赤い悪夢』は『九尾の猫』に対する法月のアンサーそのものなのです。

 ちなみに、法月は先述の対談で『九尾の猫』の結末に対し「まったく納得いかない」と語っています。

 その嘆きは理解できます。あの結末は、ふつうに読めば「しょせん人は神にはなれないのだ」と解釈する他なく、「神のごとき」探偵の「神に対する敗北」を意味するものに他ならないからです。

 たとえば「国名シリーズ」のなかでも最高傑作と目される『ギリシャ棺の謎』において多重的に読者を裏切りつづける論理の大伽藍を構築したクイーンの天才は、『十日間の不思議』と『九尾の猫』で続けざまに名探偵を奈落に突き落としています。

 それは『ギリシャ棺』や『エジプト十字架』の達成があってこその描写ですが、その時期のエラリイのファンとしては複雑な心境にならざるをえないでしょう。

 探偵の敗北とは、人間の「神なるもの」に対する敗北なのです。

 そしてこの節の最後に、もうひとり、まったく異なる方向から「神」を描きだそうとしたミステリ作家として、麻耶雄嵩の名前を挙げておきましょう。

 「新本格ミステリ」が生み出した最大の鬼才であり、その鬼子ともいえる麻耶は、『夏と冬の奏鳴曲』において、たしかに「神なるもの」を描出することに成功します。

 『夏と冬の奏鳴曲』という作品はミステリ小説としてあまりに異形であり、説明に困ってしまう内容なのですが、そこでは「神のトリック」が描写され、「神」が間接的に垣間見えます。ステリ小説のひとつの極北、限界、それを乗り越えてしまった大カタストロフィの傑作です。

 クイーンにしろ、法月にしろ、あるいは麻耶にしろ、「神なるもの」は理性を突き詰めて推理したその先にこそ想定されています。究極理性のまえに立ちふさがる超越存在としての「神」。そのヴィジョンは戦慄的です。

 ④「酸鼻と陰惨のゴシック・ホラー」

 さて、ここまでSFとミステリにおける神聖な表象について語ってきたわけですが、そういった「聖なるもの」、あるいは「神なるもの」と最も無縁に思われる文学形態に、ホラーがあります。

 ホラー小説においては、表面的には「聖なるもの」が主題として扱われることはめったにありません。

 そこでは、基本的に人が見たくないもの、目を背けたいものこそが主眼となり、清らかなもの、綺麗なものは無惨に凌辱されるさだめなのです。

 しかし、そういったホラーはある意味では「聖なるもの」を逆照射する文学でもあります。

 恐怖のくらやみのなかでこそ、「聖なるもの」は光を増します。ホラー的な描写のなかにこそ「聖なるもの」を感じ取るという人は少なくないでしょう。

 ホラーはあらゆるポップカルチャーのなかでも最も好き嫌いが分かれる分野です。いいえ、そもそもそれをポップカルチャーと呼べるのかどうかすら疑問があります。

 たしかに現代においてもホラーはきわめて人気のある一ジャンルではあるのですが、「ポップ」というかるい響きには似合わない性質がそこにはあるのです。

 それはいまでも常識的な人たちの眉をひそめさせるような暗黒と邪悪の賛歌なのです。

 どれほど大衆化し、陳腐化したとしても、ホラーはその底に「見たくないもの」を沈殿させています。

 ですが、それは同時に「どうしても見てみたいもの」でもあります。人は許されざる禁忌にこそ惹かれ、あこがれるものでもあるのですから。

 オタク的なカルチャーにおいても、ホラーは重要な地位を占めています。たとえば綾辻行人の耽美的なホラー/ミステリ小説『ANOTHER』はアニメ化されて人気を博しました。

 そのようなホラーのひとつの源流として、ゴス(GOTH)と呼ばれる文化があります。

 18世紀ヨーロッパにおいて発達した啓蒙主義、あるいは良識的な宗教、文化、文物に反発する形で「闇黒の中世」にあこがれた人々が生み出した文学の形式です。

 ホレス・ウォルポールの『オトランド城奇譚』を嚆矢とし、高原英利『ゴシックハート』によると、次のような特徴を備えています。

 色ならば黒。時間なら夜か夕暮れ。場所は文字どおりゴシック建築の中か、それに準ずるような荒涼感と薄暗さを持つ古い建築物のあるところ。現代より過去。ヨーロッパの中世。古めかしい装い。温かみより冷たさ。怪物・異形・異端・悪・苦痛・死の表現。損なわれたものや損なわれた身体。身体の改変・変容。物語として描かれる場合には暴力と惨劇。怪奇と恐怖。猟奇的なもの。頽廃的なもの。あるいは一転して無垢なものへの憧憬。その表現としての人形。少女趣味。様式美の尊重。両性具有、天使、悪魔など、西洋由来の神秘的イメージ。崇高さへの傾倒。終末観。装飾的・儀式的・呪術的なしぐさや振る舞い。夢と幻想への耽溺。別世界の夢想。アンチ・キリスト。アンチ・ヒューマン。

 つまりはゴスとはキリスト教の伝統と倫理に対する反逆と侵犯そのものです。ヨーロッパにおいて、長いあいだ支配的だった感覚や価値観に対抗する「悪の美学」。それがゴスなのです。

 そして、現在、ゴスは日本においてもひとつの価値観と化して流通しています。偽善や欺瞞を嫌い、夜の闇にこそ真実を見る悪魔の伝統。

 かつてフランス革命当時、マルキ・ド・サドはその陰惨な文学において、キリスト教精神を侵犯し凌辱しました。

 残虐と頽廃を究めるかれの文学は、それまでにまったく類例のないものであり、サディズムの語源となっていることはご存知の通りです。

 しかし、じっさいにはかれのその行為は逆説的に「神」を照らし出しています。神なるものがあるからこそ、それに対する反逆も意味を持つわけです。

 それはあらゆる偽りを忌み嫌いますが、その一方で神の高み、崇高さを追い求めます。まさに宗教的な性格がそこにはあるといって良いでしょう。

 世の中の多くのまっとうな小説がつまりは「昼の物語」であるとするなら、ゴスやホラーは「夜の物語」といっても良いと思います。

 人は本能的に夜と闇とに恐怖を抱きます。文明が夜中を煌々と光で照らすまでになったいまなお、人はその怖れを払拭し切れてはおらず、それ故に恐怖の物語に惹かれるのです。

 そのため、ホラーはいまでもまだ人気があります。

 もちろん、そういったホラーのなかにはある程度、エンターテインメントとして処理されたものもあれば、より原液的に濃密な恐怖作品もあるでしょう。

 スティーヴン・キングやディーン・クーンツは娯楽として洗練されたモダンホラーの世界を築きましが、たとえばジャック・ケッチャムはもっと救いのない酸鼻なホラーをいくつも書いていることで知られます。

 かれの世界はただひたすらに陰鬱で、作家の悪意を感じ取らざるを得ないような世界です。

 現代のホラー小説はゴシック文学に比べ、「神」を意識していない分、より虚無的かもしれません。

 そこには、もはや善や悪といった倫理的基準すら存在しておらず、ただただ終わりのない悪夢が続いているばかりといったことすらあるでしょう。

 そこには必ずしもゴスの美学はありません。ゴスはたしかにモダンホラーの源流ではありますが、まったく同一の文化とはいいがたいのです。

 また、ゴスはいくつかの傍流の文化を生んでいます。そのひとつが「テクノゴシック」です。

 サイエンス・フィクションのひとつのジャンルであり、サイバーパンクに一脈通じる位置にある作品群のことです。

 小谷真理の著書『テクノゴシック』では、『マトリックス』や『攻殻機動隊』といったSF作品が「テクノゴシック」の代表例として取り上げられています。

 サイエンスとゴシックは本来、「混ぜるな危険」というべきか、まったく異質な文脈にあるように思われますが、それをあえて混合させるところにテクノゴシックの面白さがあります。

 テクノゴシックは不透明な社会のヴィジョンとともに「昏い未来」を描き出します。

 SFといえばあかるい未来を描くのが王道ですが、サイバーパンクの嚆矢とされる『ニューロマンサー』以降、すでに何十年も経ついまは、その未来のヴィジョンは複雑化、多様化しています。

 その結果、「昼の物語」とも思えるSFの世界に「夜の物語」がなだれ込むことになっているわけです。

 たとえばアーサー・C・クラークなどのハードSFは典型的な「昼の物語」でしょうが、テクノゴシックはあくまで「夜の物語」です。

 もちろん、「昼の物語」と「夜の物語」に優劣があるわけではありませんが、「昼の物語」の積極的な楽天性は「夜の物語」にはありません。

 そこで焦点があたるのは、あくまで恐怖と暗黒です。

 テクノゴシックの混沌とした描写には、SFに特有の情報量のオーバーフローの快感とともに、クラシックな血と闇に身をひたす悦楽があるといえるでしょう。

 もっとも、日本では、テクノゴシックという言葉で紹介されたSF作品は少ないのが実情です。

 国産作品なら、牧野修の『傀儡后』あたりがある程度でしょうか。

 海外小説としては、リチャード・コールダーの〈自動人形シリーズ〉も「テクノゴシックの美学に貫かれた」作品として扱われていました。

 あるいは、「サイバー・ビザンチン主義」とも称されたというエリザベス・ハンドの『冬長のまつり』なども思い浮かぶところです。

 いずれも、独特の世界観を持つオリジナリティ豊かな作品で、しかもきわだって耽美だという特徴を持っています。

 いまとなっては耽美といった言葉はある種のジョークにしか使われないかもしれませんが、それでもここにはひとつの夜の美学の体系があるのです。

 いずれにせよ、こういったホラーやゴシック文学といった夜と闇の物語は、「神なるもの」の不在にこそその本質があります。

 吸血鬼やフランケンシュタインの怪物、あるいはゾンビといったくらやみの魔物たちは、神の不在があるからこそ暗黒の舞台の主人公として活躍できるのです。

 逆説的ではありますが、かれらの存在は神なるものを讃えているとすらいえることでしょう。

 ⑤「ナルニアへ続く箪笥」

 一方でそういった「夜の物語」としてのゴスやホラーと対極にあるのが、「朝の物語」としてのファンタジーです。

 ホラーがより暗く沈んだ世界を描き出すのに対し、ファンタジーはよりあかるい、光差す世界を描き出そうとする傾向があります。

 ただ、あるいはこのように書くと、ダークファンタジーというものがあるではないかといわれるかもしれません。

 また、たとえばマイケル・ムアコックやクラーク・アシュトン・スミスも古くから昏く頽廃的な世界を描き抱いて来たことは事実です。

 しかし、そういった古い作品はともかく、現在、ダークファンタジーと呼ばれているジャンルは、たとえば『ナルニア国ものがたり』や『指輪物語』、『ゲド戦記』といったクラシックなファンタジー小説とは大きく作風が異なるように思われます。

 それらはファンタジー小説に特有の一種の宗教性を喪失し、あるいは意識的に投げうって、いわば「世俗化」した小説であるというのがわたしの理解です。

 どういうことでしょうか。

 つまり、ファンタジーとはもともと「宗教的なるもの」を内に孕んだ文学ジャンルであると考えるのです。

 ホラーは、人間がとても耐えられないような、暗黒の臨界を指し示すことによって逆説的に「神なるもの」をも暗示する一面があります。

 それに対して、ファンタジーはもっと直接的に「神なるもの」を描き出そうとしています。しばしば古典ファンタジー小説が宗教的なものを感じさせるのは、そのためでしょう。

 もちろん、それは特定の宗教の教典ではありません。したがって、特定の教義を説いているわけではないのです。

 しかし、たとえばルイスの『ナルニア国ものがたり』を読むとき、そこに強く、深く「宗教的なるもの」が揺曳していることを実感させられるのは間違いないでしょう。

 大澤千恵子『見えない世界の物語 超越性とファンタジー』では、アンデルセンやマクドナルドなど、さらに古い作家たちにさかのぼってファンタジー小説の「超越性」のヒストリーを描き出しています。

 その視点で見ると、たとえば『人魚姫』などにも「現世からの超越志向」が見て取れます。

 それは、単なる現実逃避とは異なっています。古典的な意味でのファンタジーとは、「この世界より優れた世界」がどこかにあり、そこへたどり着きたいという「彼岸」への想いが背景にあって初めて理解できる作品なのです。

 現世、現実を当然に至上の価値と見る視点からすれば、それは危険思想ですらあるかもしれません。

 ですが、ある種の夢見がちな人間にとっては、幻想こそが現実をも上回る価値を持ち、どこかに「帰るべきふるさと」があるという考えかたは、ごく当然のものです。

 『指輪物語』であれ、『ナルニア』であれ、『はてしない物語』であれ、きわめて優れたファンタジー小説に出逢うとき、それらを愛してやまない読者は「魂のふるさと」に帰還したような想いを味わうことでしょう。

 いや、むしろその感覚を味わうためにこそ、人はファンタジーを読むのではないでしょうか。

 とはいえ、いま、クラシックなファンタジーの時代は終わり、ダークファンタジーやゲーム的なファンタジーが流行しています。むしろ、いまやファンタジーといえばゲーム的なファンタジーのことを指しているような状況でしょう。

 それらもファンタジーであるには違いありません。また、面白い作品もたくさんあります。ですが、かつてのファンタジー小説にはたしかにあった「宗教性」、あるいは「聖なるもの」への志向性は失われてしまったのではないでしょうか。

 たとえば、『ロード・オブ・ザ・リング』や『ゲーム・オブ・スローンズ』といった映像大作もそうです。

 それらは、きわめて緻密な美術で見るものに「もうひとつの世界」を実感させてくれます。しかし、その「もうひとつの世界」は、ほんとうにただ綺麗に形づくられた「もうひとつの世界」であるに過ぎず、より美しい、より偉大な、より深遠な、より濃密な――そういう世界であることを感じさせてはくれません。

 それはきわめて優れたエンテーテインメント・ムービーではあるものの、スピリチュアルな意味での「聖なるもの」が欠落しているのです。

 いってしまえば、ジェームス・キャメロンのSF映画『アバター』と特に変わらないように思えます。

 

 それでかまわない、むしろそういうものこそ見たいという観客が多かったからこそ、映画は大ヒットした。それはたしかです。

 しかし、その映像化の成功は、『指輪物語』が「どれほどの最新のコンピューターグラフィックスをもってしても描けないもの」を描いた作品だったことを実感させる結果にもなったのです。

 思えば、ハリウッドにおける『ロード・オブ・ザ・リング』の映像化は完結するまで成功したが、『ナルニア』はシリーズの途中で中断してしまった。それもまた必然だったと感じます。

 『ナルニア』の最も神聖な象徴であるアスラン、ライオンの姿をした偉大な存在は、本来、「描けないもの」そのものでした。

 しかし、現代のコンピューターグラフィックスはそれを一匹のライオンとして「描き出して」しまいます。

 その結果として、映画版の『ナルニア』から「聖なるもの」は消え失せてしまいました。そして、その「聖なるもの」を除いてしまえば、『ナルニア』のストーリーは単なる名作児童文学以上のものではないのです。

 井辻朱美は『ファンタジー万華鏡』のなかで『ナルニア』に触れてこう書いています。

 ファンタジー衝動の究極の焦点はここにあるのではないだろうか。なんらかの聖なる、幸福な、本来の、世界への目覚め。それは目覚めであるからには、いままでの自分は夢を見ていたその自分、小さい悪夢に悩まされていた自分である。宗教的なひろびろとした境地への解脱と言ってしまうと、みもふたもない。だが個々の宗教の用語や世界観を超えて、この言葉にはそうした世界への帰依と救済への渇望がある。
 物語が「聖なるもの」に触れあうとき、それは書き尽くせないというジレンマを伴う。書き尽くしてしまえば、それは終わって閉じられる掌上の小世界になるからだ。だからC・S・ルイスはこの先を書かなかった。そしてどんなファンタジーも、現実からのこの垂直次元上昇を目指している、少なくとも目指す衝動から出発しているのではないだろうか。それは願望が充足される異国や別世界への水平転移だけではない。「リアル」の密度の変化、ある意味では現実の重さが薄められ、希薄化されて、しかしより充溢した価値観のようなものに満たされる世界への垂直上昇。

 ファンタジーとは「聖なるもの」に満ちた世界への「垂直次元上昇」をめざす文学だというのです。

 遥かに美しく、神聖な領域へ向けて、世界の垂直軸を上へ上へと上昇するイメージ。

 つまりは、ナルニアとはただこの世界とは違うどこか、いわばこの世界にとって水平軸の場所にある「並行世界」ではない。それはあえていうなら垂直軸における「上」に存在する「上方世界」なのです。

 「小説家になろう」掲載作品に象徴されるような、現代の「世俗化」したファンタジー小説が一般に「並行世界」を志向するのに対し、ルイスやトールキンの作品は明白に「上方世界」を目ざしている。

 それは「ある意味では現実の重さが薄められ、希薄化されて、しかしより充溢した価値観のようなものに満たされる世界」に他なりません。

 『ロード・オブ・ザ・リング』や『ゲーム・オブ・スローンズ』といったハリウッドの映像大作、あるいは『スカイリム』のような現代のオープンワールドゲームは、その優れた映像表現で、何とも「リアリティある」世界を描き出します。

 ですが、そのリアリティはクラシックなファンタジーのリアリティとは異なっています。どんなに精巧に、緻密に美術を駆使しても、それだけではナルニアやファンタージェンは成立しないのです。

 それは何かしら物理的な意味での異世界というよりは、どことも知れず「この世の上のほうにある世界」なのですから。

 同じように異世界とはいっても、その意味するところはネット小説とは大きく異なっているのです。

 しかし、夢は忘れ去られ、幻はかき消えました。いまやそういったファンタジーは、絶滅したわけではないとしても、マイナージャンルも良いところです。

 人々は物語に「聖なるもの」を求めることをやめてしまったのでしょうか。

 そうではないはずです。ですが、あたりまえのエンターテインメントの方法論には収束しづらい「聖なるもの」という抽象的な概念は、ハリウッドの超大作には似合わないのでしょう。

 これからもハリウッドはリアルなダークファンタジーの傑作をたくさん作っていくことでしょうが、そこに「魔法」を感じ取ることはむずかしいかもしれません。

 しかし、いつでも『ナルニア』のページを開けば、その不思議な箪笥から冒険が始まることもたしかです。

 いまでも、わたしたちは物語のなかに「聖なるもの」を見いだすことはできるのです。わたしたちが、そう望むのなら。

 第六章「性と聖」

 まだあなたが残ってる
 からだの奥に残ってる
 ここもここもどこもかしこも
 あなただらけ 吉澤嘉代子「残ってる」

 ①「推し活は「性的消費」なのか」

 さて、ここまで一見して雑然としたオタク文化の聖なる側面について語ってきました。

 しかし、それらについて深く考えていくと、その「綺麗な」一面をことさらに強調することに躊躇が生まれます。

 オタクは推しを通じ「聖なるもの」の一端に触れる。それはそうなのですが、オタク文化はそれだけのものではありえません。

 それは一面で宗教的ともいいたい崇高な顔を持ちながら、もう一方ではかぎりなく猥雑な顔も持ち合わせているのです。

 そのオタク文化のもうひとつの顔とは「性的なもの」です。

 オタク文化はどうしても性的な要素を孕みます。それどころか、オタクといえば性的な側面ばかり思い浮かぶ人も少なくないでしょう。じ

 っさいにはそれは一面的な見方に過ぎないわけですが、逆にいえばたしかに一面ではそういうことがあるのです。

 そういったオタクの「葛藤」に踏み込んで考えた本に『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』があります。

 幾人かが連名で記した本ですが、そのなかに「キミを見つめるわたしの視線が性的消費だとして」と題する論考が掲載されています。

 アイドルを「性的消費」することについて真剣に考察した記述です。このような文章があります。

 生身の現実に生きている人間が性的表現をするとき、それは確かに性的消費の対象になる。そして性的表現をするときに性暴力の対象になることはあるが、性的表現は必ずしも性暴力とはかぎらない。そもそも性的消費は罪ではない。性を消費することは常に暴力性を内包するが、すべてが暴力ではないのだ。

 なるほど、ごもっとも、とわたしは思います。

 ただ、ひとつ、ここでは自明の概念であるかのように語られている「性的消費」とは何なのでしょうか。「性を消費する」とは具体的に何を意味しているのでしょうか。

 じつはこの言葉には明確な定義はありません。広く一般的には「他者を性的に見つめること」を意味しているのでしょう。

 ですがその視線がなぜ「消費」と名指されるのか、明確な説明を見た記憶がないのです。

 その意味では、これといった具体的な内実を持たない「バズワード」といえるかもしれません。

 ネットではフェミニストが好んで使用するため、オタクは反感を募らせているようです。

 その憤懣はわかります。意味がありそうでいてまったくない、ただの「バズワード」で文化全体を糾弾されたらたまったものではないでしょう。

 ですが、そうはいっても、一部の(大半の?)オタクがそう主張するように、「性的消費」として表される行為は一切、何の問題もないのでしょうか。

 たしかに藁人形論法は好ましくありません。ですが、その「性的消費」とされる行為がときに不快と屈辱を呼ぶことも事実なのです。

 もちろん、「性的消費」を「他者を心のなかで性的に捉えること」と定義するならほとんどだれもが何らかの形で他者を性的消費しているといって良いでしょう。

 そして、その解決策は「おたがいに我慢しあう」くらいしかないでしょう。

 だから、性的な作品が規制されるべきだとは思いません。人に不快を与えるものをことごとく排除していったならその先に待つものはディストピアでしょうし、そういう行為はどこかファシズム的です。

 それはネットでくり返し説かれている通りです。しかし、そこでわたしはただ「我慢しろ」といって済ませることに微妙な抵抗を感じます。

 ほんとうにそれで良いのでしょうか。何かしら性的なまなざしを向けられて不快感を覚える人たちが「我慢」することは当然なのでしょうか。

 そこに混乱を、葛藤を感じます。そのため、わたしは著者の混乱に共感を覚えます。彼女が思考の迷路に嵌まっていく理路がよく理解できるのです。

 彼女は書いています。

 性的な行為の強制は、いや性的なものに限らず行為の強制はすべて暴力である。しかし、この世に本当に強制ではないものなどあるのか。そもそもなぜ生きているのか、なぜ欲望を抱くのか、それは誰か=背秋に強制されているものではないのか。誰かが喜んでくれるからその好意をする、というのは本当にまやかしではないのか。もしかすると社会が強制しているものではないのか。アイドル、あるいは芸能に生きる者は本当にそれを自分で望んでいるのだろうか。例えば歌舞伎の一門のことを見たとき、小さい頃から芸事をたたき込まれる子どもは本当にそれを「望んでいる」のだろうか。私は思考の渦に入り込んでしまう。

 きわめて混乱した、未整理であいまいな文章です。まったく論理的ではないし、デカルトではありませんがもう少し問題を細かく切り分けて考えていくべきではないかと思えます。

 しかし、この論考が、その混乱にもかかわらず優れているのは自分自身を性的視線の「被害者」として位置づけるに留まらず「加害者」としても見ているからです。

 著者ははっきり自分がアイドルをセクシュアルに「消費」していることを自覚しています。彼女は自分が「性的消費」されることにいいようのない不快を感じます。

 それでいて、自分自身もまた、アイドルを「性的消費」せずにいられないのです。自然、そこには「葛藤」が生まれます。

 その葛藤がこの文章を深いものにしているのです。少なくとも彼女は自分のことだけ棚に上げてはいません。

 男性であれ女性であれ、性的な想いを込めだれかを見つめることは暴力を孕みます。

 もちろん、それが内心に留まっているならだれにも知るすべはないわけですが、ひとたび、何らかの形でそれが外に出ると、だれかを傷つけたり、不快にさせたりすることがありえます。それは事実。

 たしかに、わたしは表現の自由を尊重しますし、性的表現を一段下のものと蔑視するフェミニストには共感しません。

 しかし、それでも性的な表現が不快をもたらすことは理解できるように思うのです。

 まったく理解できない、何が悪いのかわからないという人もいるでしょう。その立場もわかります。

 ですが、わたしがいいたいのは良いとか悪いということではありません。

 たしかに表現の自由にもとづく正当な権利はあるでしょう。ですが、その「正当な表現」が人を傷つけることがありえることに対し、わたしにはいくらか苦い思いがあるのです。

 くり返します。

 「悪い」とか「間違えている」とか「規制されるべきだ」といっているわけではありません。

 そうではなく、それが仮にどんなに政治的に正当な行為であっても、現実に人を苦しめることがある。そのことに言葉にならない想いがあるのです。

 おそらく、それはひとつ性表現にかぎらず、何かしら表現を行う人間が背負い込むべき十字架なのでしょう。

 どのような表現であっても人を傷つけ、苦しめることはありえます。

 場合によっては自殺に追い込むことすら皆無ではありません。

 表現とは、その覚悟を背負うことでしかありえないのです。

 そしてまた「推し」を性的にまなざすことも、程度の差はあれ暴力でありえます。

 そこに込められているものはたしかに、まったく純真で純粋な好意ではあるでしょう。

 だが、その好意ですら、かれ/彼女を傷つけるかもしれません。

 それが「見る」ということ。

 アニメからアイドル、またいわゆる「2・5次元」に至るまで、オタク文化は「性的なもの」と「聖なるもの」をともに孕んでいます。

 また、人を傷つけ苦しめる側面と、癒やし、力づける側面を併せ持っています。

 そして、その性的な一面に着目するとき、推しを神のように崇拝するからこそ、自分自身の性的なまなざしは邪に穢れているように思われて来ます。

 その心理はわかります。ただ、それはひとつオタクだけの問題ではありません。人間が性を抱えて生きている以上、避けられない暴力性なのです。

 極言するなら、人が人と何かかかわりをもつことそのものが暴力性を胚胎しています。

 それをほんとうに全面的に肯定できるものなのか。どこかに葛藤と、そして後ろめたさが残ります。

 単に「正しさ」の次元の話ではありません。そうではなく「それが倫理的に問題がないと認められるならば、人を傷つけてもかまわないのか」という問いがあるのです。

 あまりにナイーヴな発想かもしれません。そもそもだれも傷つけずに生きていくことなど不可能なのですから。

 ただ、性を巡る局面においてこの問題は最大化します。だから、人はときに葛藤するのです。

 「正しさ」を超えたところでの話ですから、明確に「正しい」答えはありません。

 ただ、ときにオタクが「性的なもの」に対し後ろめたさを抱える理由はひとつにはここにあると思うのです。

 「聖なるもの」と「性的なもの」が混在するこの文化のなかでその後ろめたさを消す方法はあるのでしょうか。

 この先の節でさらに考えてみたいと思います。

 ②「エロティシズムと聖なるもの」

 フェミニストがいう「性的消費」は、オタクにとっても、ときには後ろめたさと、罪悪感、あるいは自己嫌悪につながっていることがある。そういう話をしました。

 ここまで記述してきたように、オタクの文化は「性の文化」であることをまぬかれません。

 しかし、それは同時に「聖の文化」でもあると本書は主張します。そのようなことがありえるでしょうか。ありえるのです。

 そもそも、「性」と「聖」を分離し、また対立する概念として処理することは当然でもなければ絶対でもありません。

 たしかに、日本人にとって最も親しい宗教である仏教やキリスト教では、聖職者の妻帯は許されず、また性行為は邪なものとして処理されてきました。

 「マタイによる福音書」によれば、イエスは「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」と語ったといいます。

 「姦淫」は悪である上に、ただ心のなかで思い描くだけでもその罪にあたるのです。まさに内心の「性的消費」を問題視するフェミニストのようではないでしょうか。

 しかし、必ずしもすべての宗教で性的なことが禁止されてきたわけではありません。

 密教では性的なエクスタシーを宗教的境地とみなす教義がありました。「性的なもの」と「聖なるもの」が矛盾なく両立することはあるのです。

 たとえばホドロフスキーの映画もそういう境地をめざしているように見えます。

 「性の文化」としてのオタク文化を象徴するのが二次創作同人誌の山です。

 オタク業界では、何かヒット作が出ると、即座に膨大な二次創作が作られます。つまり、オタクは自ら崇拝するキャラクターを性的に侵犯するのです。

 それはオタクにとってひとつの愛の形でしょう。しかし、きわめて屈折した愛であるというありません。まさに一種の「性的消費」であり、神聖凌辱なのですから。

 いうまでもなく、こういった行為を好まない人もたくさんいます。あるいは積極的に嫌悪する向きもあるでしょう。

 とはいえ、そういう人は必ずしも多数派ではありません。たしかに自分が好まないタイプの性的表現を持つ人は多いでしょうが、一切の性的表現を許容しないオタクはやはりマイノリティなのではないでしょうか。

 そういうわけなので、オタク文化においては子供向けも含め、ほとんどありとあらゆる作品がまさに「性的に消費」されてきました。

 オタク文化の歴史上、ポルノ的に二次消費されていない人気作品はほとんど存在しません。

 それが「男性向け」であれ「女性向け」であれ、一定以上の人気を集めたマンガやアニメは、かならずポルノ化される。オタク文化が「性の文化」だというのはそういうことです。

 そこにはじつに多彩な暴力と倒錯した変態趣味が付随しています。恥知らずと見る人もいるでしょう。

 ただ、そういった「下品な」一面と、クールジャパンと呼称される「上品な」一面は決して切り離すことができません。

 綺麗なところだけ取り出して世界に誇る文化を成立させようなどとはしょせん無理な話なのです。

 かつて、三島由紀夫が「エロティシズムのニーチェ」と呼んだフランスの思想家ジョルジュ・バタイユが、その著書『エロティシズム』において、エロティシズムを禁止と侵犯の行為として定義したことは有名です。

 オタク的エロティシズム文化もまた、ありとあらゆる禁忌をありとあらゆる方法で自在に侵犯します。

 その多彩さと不毛さはオタク文化そのものの世間的なイメージを創出しています。しかし、それらはじっさいのところ、バタイユが提唱したような苛烈な生の称揚にはなっていないでしょう。

 ただ形だけ禁忌と侵犯のゲームをくりひろげたところで、そこにエロティシズムは存在しません。その意味で、オタク文化全体に退屈を感じることも理解できます。

 いくらクールジャパンだなんだと騒いだところで、その実態はただのエロ表現の山ではないか。そのような意見は、特にフェミニストなどから寄せられることでしょう。

 たしかにオタク文化の「性的なもの」は猥雑で下品である。その上、バタイユ的な意味での反社会性も、この、あらゆる性的表現が野放図に氾濫する現状ではあまり意味があるようには思われません。

 一般的にいって、どれほどの性的侵犯も、しょせん何らかのアダルトビデオのなかで見ることができる程度のものに過ぎないでしょう。

 サドやバタイユが描いた倒錯ですら、いまとなってはあたりまえに消費される変わった趣味のひとつに過ぎません。

 もちろん、それを現実に犯したら性犯罪以外の何ものでもありませんが、フィクションである限り一応は許容されるのです。

 それもいつまで続くかわからないこともたしかですが、とにかく、いまの時代において、とりたてて侵犯が生の称揚を意味するような性的禁忌はほとんど存在しないのです。

 あるいは唯一の例外は幼児性愛であるかもしれません。

 幼児性愛は近代社会で最大の禁忌とされ、いまなお社会的に許容されていません。そして男性オタク文化全体がロリータ・コンプレックスと親和的なのはご存知の通りです。

 もっとも、じっさいにオタク一般がロリコンかというとそのようなことはまったくありません。

 ただ虚構作品へ性的に耽溺する「フィクション・セクシュアル」としてのオタクが美少女に魅力を感じていることは事実。

 オタク文化がかつて凄まじい抑圧を受け、いまなお一部から強烈な反発を受けるのも、その主な理由はそこに幼児性愛の影が見られるからでしょう。

 ただ、そうはいっても一般的にはオタクの性的関心の主流は幼児性愛にはなく、その意味でオタク文化はバタイユ的な意味での「禁断の文化」とはいえません。

 氾濫するオタク・ポルノグラフィはその意味で普通のポルノに過ぎないのです。

 それでは、その面白さはどこにあるのでしょうか。

 それはしばしばポルノグラフィとしてあまりに物語が過剰なところなのではないでしょうか。

 ポルノグラフィは本来、性的に消費されることを第一義とします。ところが、オタク・ポルノグラフィはその目的から外れていってしまうことがあるのです。

 べつだん、ポルノを超えて芸術になったということではありません。そうではなく、性的エンターテインメントであると同時に、物語エンターテインメントであることをこころざす作品が存在するのです。

 最近、紫綬褒章受章作家・稲葉真弓が別名で執筆していたオタク的ポルノ小説があらたに出版され直す出来事がありました。

 それはもちろん「文学」ではないかもしれませんが、ひとつの文芸作品として価値が見いだされたわけです。このような例はしばしば見られます。

 もちろん、歴史的に見れば、高尚な「文学」の書き手と見られる作家がその実、ポルノ小説に手を染めていたことは時々あります。

 しかし、オタク・ポルノグラフィにおいてはそのような例があまりにもひんぱんに見受けられるのです。

 ときにはポルノであることを利用して商業的に成立しづらい種類の物語を描こうとしたものと思われるケースも存在します。

 また、ポルノの現場で活動していた作家がより主流のエンターテインメントで活躍していたり、あるいはそういった主流エンターテインメントの作家とみなされていた人物が同人誌市場で平然と自作のポルノ化を試みていたりと、ポルノと非ポルノの区別があいまいなこともオタク文化の特徴です。

 オタク文化が男性向けと女性向けとを問わず「性の文化」であるとはそういうことです。

 オタクは、男性も女性もエロティックなものに敏感で、それに耽溺します。そういう意味でこの文化は自慰的な匂いと無縁ではありません。

 しかし、そこには何かあたりまえのポルノに収まり切らない「過剰なもの」があり、しばしば世界的なヒット作へつながっていたりするのです。

 たとえば、今日、アニメ界の巨匠とみなされている新海誠もまた、アダルトゲームにかかわっていた一時期があることは、ファンの間では広く知られています。オタク・ポルノグラフィは案外と豊饒な世界なのです。

 ③「泣けるゲームやアニメの神聖な構造」

 前節では、オタク・ポルノグラフィの自由さについて簡単に記しました。そこには、さまざまな作品が百花繚乱(百鬼夜行?)を究めるある文化の可能性がありました。

 その面白さをきわめてわかりやすい形で示しているのが、俗に「泣きゲー」と呼ばれたアダルトゲームの数々です。

 「泣きゲー」とは「泣けるゲーム」を指します。いまや、それらが流行したのは20年以上も前の話になってしまいましたが、その内容は色々な意味でいまの作品と通底し、その基底を成しています。

 そのなかでも、いまなお伝説的に語られているのがKeyの『Kanon』、『AIR』、『CLANNAD』といった作品です。

Kanon - Switch

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 これらはのちにアニメ化され広く視聴されることになるのですが、ゲームの時点できわめて高い評価を得ていました。「泣ける」という評判です。

 ただ、もちろんそういった評価はシニカルでアイロニカルなオタクの界隈においては否定的な意見にもつながります。

 「『CLANNAD』は人生」といった言葉は、オタクの間でしばしば揶揄的に使われます。たかがゲームひとつが「人生」を表しているなど大袈裟で滑稽だというわけです。

 それはじっさい、間違えていないところもあるでしょう。単に「泣ける」からといって、その作品を深遠なものとみなすことは誤謬でありえます。

 しかし、そもそも「泣きゲー」といわれたこれらのゲームの価値はほんとうに「泣ける」ところにあったのでしょうか? じつは必ずしもそうではありません。

 仮に「泣ける」内容が第一に来るとしても、「なぜ泣けるのか?」と考えてみなければならないのです。

 表面的には難病、変身、呪いといったいかにもセンチメンタルな題材を扱い、それらを美しい画像と音楽で演出したに過ぎないとも思えます。

 ですが、その構造を深く見ていくと、さらなるものが見えて来ます。そういった「泣きゲー」の頂点を示しているのが2000年代初頭に発売された『AIR』です。

 『AIR』は京都アニメーションによって映像化され、圧巻のクオリティで記念碑的な名作となりました。

 一般的に「京アニ」の出世作といえば『涼宮ハルヒの憂鬱』になるでしょうが、それ以前に『AIR』は一部のアニメファンの高い評価を獲得していました。

 20年以上の時が経ったいまの視点で『AIR』を振り返ると、当時はいまひとつ不鮮明だった作品構造がよく理解できます。

 じっさい、発売当初には、その先進的すぎる物語は十分に理解されていたとはいいがたいでしょう。

 ようするにただ感傷的な演出と悲劇的な物語で感情に訴えかけるだけで、内容的には見るべきものがないではないか。そのような否定的意見も少なくありませんでした。

 とくべつ難解ではないにせよ、ある種、わかりやすい説明を拒み、なおかつ解説もなく時間がループする物語構造はいかにもわかりづらかったのです。しかし、いまとなってはそれが何をめざしていたのか理解できるように思われます。

 『AIR』は、一千年前にかけられた呪いを受け、孤独に暮らす少女の苦難の物語です。彼女はその呪いのため記憶も能力もすべて失っていく。その喪失のプロセスが後半の焦点になります。

 この過程は一見して彼女の「幼さ」を強調しているように見えます。少女はありとあらゆる大人としての能力を失くし幼児帰りしていくからです。

 しかし、じっさいにはそれは「人間的なるもの」の戦いを表しています。人間が、人間らしくあるための戦い。前半の伏線を回収しつつ、きわめてスピリチュアルな物語が展開します。

 もっとも、それらのほとんどはある種、合理的解釈が可能です。つまりあくまで物語を構成する道具であり、背景だと見ることができるわけです。

 しかし、そうやってロジカルに物語を解体していったとき、最後に「惑星の記憶」という設定が残ります。

 これは文字通り地球が抱える記憶を指しています。どうやら『AIR』の世界ではこの地球の記憶として、人類を含むすべての生きものの記録が残されているらしいのです。

 「惑星の記憶」は遥か何億年も前からありとあらゆる生き物の苦しみの生を記録しています。だれにも理解されず消え去っていくとしか思われないすべての戦いは「地球という星が憶えている」のです。

 きわめて宗教的なイメージ。

 『AIR』の他のすべての部分が物語として、エンターテインメントとして合理的に解釈可能だとしても、この「惑星の記憶」はあまりに過剰な印象を受けます。

 それは物語のなかにしっくりなじんでいるというより、ひとつの「そうであってほしい」スピリチュアルな祈りを体現している概念に思われるのです。

 ここにおいて、『AIR』は一般的な物語であることを超え、ひとつの宗教理念の象徴となります。

 「人間を含めたありとあらゆる生き物の苦しみは、嘆きは、哀しみは、すべてが虚無に消えていくわけではない。それを憶えていてくれる存在がある」という救い。

 それは「人は死んだらどうなるのか?」という「ビッグ・クエスチョン」に対する解答であり、それ故にスピリチュアルな感動があるのです。

 多くのファンは少女の苦しい戦いとその果ての死に宗教的な救済、つまり「聖なるもの」を見ました。

 注意しておくべきでしょうが、『AIR』の本質は少女が苦しみ死んでしまうその悲劇性にあるわけではありません。

 重要なのは、人が生きて死んでいくその苦しみのすべてを見とどけたものがあることであり、そのどこまでも「人間的な」生が聖に通じていることなのです。

 くり返しますが、とはいえ『AIR』はある種のアダルトゲーム、「エロゲ―」として発表された作品です。

 作中には性的場面が描かれ、「性的なるもの」として消費されている一面があります。

 じっさいのところ、そういったエロティックなシーンはファンのあいだでは不要なもの、かえって物語の感傷を邪魔するものとして受け取られている一面があるのですが、そうはいっても『AIR』が「エロゲ―」であることは客観的な事実であり、「しょせんはポルノではないか」と指摘することは可能です。

 いくらオタクがそこに「聖なるもの」を見たとはいっても、単につまらない感傷、くだらない思い込みに過ぎないと笑殺することは可能なのです。

 他愛ない悲劇を過大評価してそういっているに過ぎない、と。

 そもそもかれらが感動し涙を流したストーリーそれ自体がポルノ的なセンチメンタリズムであるに過ぎないという意見もあるでしょう。

 だが、わたしはべつの立場に立ちます。麻枝シナリオの最高傑作としての『AIR』や、あるいは瀬戸口廉也シナリオによる『SWAN SONG』は、いずれも何かしら「聖なるもの」を描出したからこそ人の心に訴えかける一面があると信じます。

 だが、第一義的にポルノに過ぎないものが「性的なもの」を超えて「聖なるもの」に到達することなど可能なのでしょうか。

 わたしとしては可能だというしかありません。じっさいにそれを見たのですから。

 それにしても、麻枝の方法論はあまりにも独創的です。『AIR』は最初から最後まで平凡な町の一画で終始します。

 それにもかかわらず、宗教的に壮大なものに通じているのです。これはいったい何なのでしょう。

 そもそも麻枝准のシナリオによる一連のゲーム作品は、それぞれ「えいえん」、「奇跡」、「惑星の記憶」、「幻想世界」などと呼ばれる超自然的な要素、世界、設定を備えているところに特徴があります。

 それはゲームのみならず、やはり麻枝がシナリオを務めている『Angel Beats!』などのアニメでも顕著に見られます。

 それ自体はごく普通のことと思われるかもしれません。しかし、麻枝作品における超自然的要素の扱いは独特です。いわゆる「セカイ系」とも違っています。

 麻枝が紡ぐ物語の特徴は、単にミクロとマクロを中間項としての社会をオミットしてつなぐのではなく、ミクロと、通常の意味では描写不可能な超越世界を連結させるところにあるのですから。

 それは麻枝の作品が単に「泣ける」だけのものではありえないことを示しています。

 たしかに単に「泣ける」ことは作品の深みを意味しない一面もあるでしょう。しかし『AIR』の価値はじっさいには「泣ける」ところにあるわけではありません。

 『AIR』は「泣きゲー」の頂点として語られてきましたが、その評価は本質的に不当だと考えます。

 『AIR』の真価は『SWAN SONG』と同じく、人間の辛く苦しくも美しい生を直視する誠実さ、そしてそのすべてを「惑星の記憶」が憶えているとみなす宗教的な壮大さにあります。

 それは一方で「性的なもの」を抱えながら「聖なるもの」を視るでしょう。猥雑と神聖の両立。

 それは十分に両者を一致させているとはいえないかもしれませんし、そもそも猥雑と神聖を両立させようとすること自体、人によっては耐えがたい欺瞞と思えるかもしれません。

 しかし、猥雑の否定は生の否定です。わたしとしては猥雑な物語として生まれたものが、これほどの高みに到達したことに瞠目するばかりです。

 ④「愛という言葉すら忘れ去られて」

 そういうわけで、オタク・エロティシズムについて三節を費やし語りました。ここでは一見してエロティックなものとは無縁にも思えるひとりの作家について語るとともに、かれの影響下の作品について触れていきたいと思います。

 宮沢賢治です。

 賢治について知らない人はいないでしょう。東北が生んだ大作家にして大詩人。

 生前こそその作品が評価されることはありませんでしたが、いまでは広く読まれ、知られています。

 おそらく日本の詩人、あるいは童話作家として最も知名度の高い人物であり、その作品を批評的に読み解いた本や論文も数多くあります。

 必然、アニメやマンガにも大きな影響を与えています。たとえば藤田和日郎『月光条例』には賢治本人が登場します。

 この作品も色々な意味で面白いのですが、とりあえずここで取り上げることはやめておき、ふたつの作品に話を絞ります。

 まずは幾原邦彦監督の傑作アニメ『輪るピングドラム』。

 『少女革命ウテナ』でアニメファンの度肝を抜いた幾原の新作として、放送当時きわめて大きな注目を集めた作品ですが、その難解なストーリーは解釈が分かれました。

 この作品ははっきりと賢治の最高傑作『銀河鉄道の夜』を下敷きにしています。作中に賢治の名が登場するほか、主人公たちの名前が『銀河鉄道の夜』から採られていたりするのです。

 この物語の主人公は、いずれも、ある宗教テロ組織によって集められた子供たちです。実質的にオウム真理教の「二世信者」を主人公に据えているといっても良いでしょう。

 かれらはその出生のため両親の愛情を知らず、実存的な空虚を抱えています。その問題をどうやって解決するかが物語の主題となります。

 まさに『銀河鉄道の夜』においてジョバンニとカンパネルラが「ほんとうのさいわひ」を探し求めたように。

 それにしても奇妙な物語です。この作品では、主人公たちはなぞの人物プリンセス・オブ・ザ・クリスタルの「ピングドラムを探すのだ!」という命令に従って、ひたすら「ピングドラム」なるなぞの概念? 物体? 人物? それを探すことになります。

 しかし、かれらにはその「ピングドラム」という言葉が何を意味しているのか、それすらわからないのです。

 いったい「ピングドラム」とは何なのか? 作中では最後まで明示されません。ただ、物語を追いかけていくと、それがつまり「愛」を意味していることがわかるようになってきます。

 それなら、あえて「ピングドラム」などと呼んだりせず、ふつうに愛と呼べばよいと思われるかもしれません。

 ですが、宗教組織によって育てられた子供たちはそもそも愛という概念を知らないのです。

 そのため、かれらはいったい何が自分たちを幸せにしてくれるのかも理解していません。その上で、ひたすらに「ピングドラム」という「何か」を探し求めます。

 「ピングドラム」とは、それさえあればまちがいなく幸せになれるという「何か」です。しかし、その「何か」を手に入れるためには、幼い頃にその正体を知っている必要がある。

 それでは「ピングドラム」を「ピングドラム」としてしか認識できない人間は、いったいどうすれば良いのでしょうか。『輪るピングドラム』の問いは重いものです。

 そして、もうひとつ、やはり宮沢賢治の世界を下敷きに壮大な問いを展開する作品に幸村誠『プラネテス』があります。

 宇宙空間を舞台とした近未来SFであるにもかかわらず、『プラネテス』ではしばしば賢治の詩や童話が引用されるのです。

 単なる衒学趣味ではありません。というのも、賢治こそは『プラネテス』の、というより幸村のテーマと通底する作家だからです。そのテーマとは「愛」。

 個人的な恋愛ではありません。より広く、世界を救うための「愛」です。

 幸村は自分の作品を語りはじめるにあたって、宮沢賢治を引用することに大きな意味を感じたのでしょう。

 賢治は「宗教なき時代」にあって、自ら「神なるもの」を体現しようとした作家でした。

 そのあまりに巨大な企みは挫折したようにも見えますが、『プラネテス』では主人公たちの行動のバックグラウンドとして賢治の世界が重ね合わされています。

 かつてニーチェは『ツァラトゥストラ』で「神は死んだ。わたしたちが殺したのだ」と記しました。

 それは当時の社会風潮を反映した殺神宣言であったことでしょう。それから一世紀以上を経て、神はますます死につづけ、宗教の影響力は衰えつづけています。

 ですが、見方を変えるなら、神が死んだにもかかわらず神を求める心は生きているわけです。そして自ら神の領域に足を踏み入れることで問題を解決しようする人々もあります。

 神に救いを求めるのではなく、自らが神のようになって人々に救いをもたらす。おそらく宮沢賢治はそのように考えた人でありました。

 しかも、かれはよくある偽善的な新興宗教の教祖たちのように、ただ人の上に立って教説を唱えてよしとすることに満足しませんでした。かれはあらゆる意味で宗教的な生き方を自らに強いたのです。

 『プラネテス』では賢治の童話「グスコーブドリの伝記」が引用されています。グスコーブドリという名の若者が自己犠牲により世界を救う物語です。

 グスコーブドリは世界のため自分のいのちを捨てることを躊躇しません。人類への献身にひた走るグスコーブドリのこの姿は賢治自身の姿として受け取るのが自然でしょう。

 素直に読めば崇高に美しい物語なのですが、少々意地悪く作家が自分自身の理想を主人公に仮託し美化していると見ることもできます。

 グスコーブドリの行いはたしかに尊いものです。自らその身を捨てて飢えた虎に食わせる「捨身飼虎」という仏教説話がありますが、賢治が求めたものはまさにその境地でしょう。

 しかし、そこには「自己犠牲で世界を救う偉大な自分」に対する自己満足がないでしょうか。

 もちろん、賢治は「世界を救った偉い人」として皆に褒めてもらいたいわけではありません。少なくともそういった称賛を自ら拒絶してはいます。有名な「雨ニモマケズ」の詩句を見てみましょう。

 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋ラズ
 イツモシヅカニワラツテイル
 一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 アラユルコトヲ
 ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
 ソシテワスレズ
 野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
 東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
 西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
 南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
 北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
 ヒドリノトキハナミダヲナガシ
 サムサノナツハオロオロアルキ
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニワタシハナリタイ

 南無無邊行菩薩
 南無上行菩薩
 南無多宝如來
 南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼佛
 南無浄行菩薩
 南無安立行菩薩

 一般にこれは賢治の自己犠牲に対する真摯な姿勢を表していると理解されているでしょうが、いったいなぜ「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレ」ない「サウイフモノ」でなければならないのでしょうか。

 それは賢治が称賛のために行動することに一種の取り引き、エコノミーを見て取るからでしょう。いい換えるなら偽善性があるということです。

 賢治は偽善に対しだれより敏感でありました。だからこそ自ら「デクノボー」と呼ばれることを望んだのです。

 だれかに褒められるため自分を犠牲にするのであってはならない。ただただ、だれにも知られることなく自らを与えつづけなければならない。

 「グスコーブドリの伝記」にもそういった思想が見て取れます。

 ですが、たとえだれに褒められることを求めていないとしても、純粋な自己犠牲などありえるでしょうか。それは結局、ナルシスティックな自己満足でないといえるのか。

 これは賢治の苛烈な自己犠牲精神に対し、あまりにもきびしい糾弾であるかもしれません。

 また、かれは「サウイフモノニワタシハナリタイ」とだけいっていて、決して自分こそそういう者であるといっているわけではないでしょう。

 ですが、その賢治の微妙な逡巡に、わたしは何か切ないものを見ます。

 グスコーブドリの物語は崇高です。ですが、人は必ずしも崇高にだけ生きられるものではありません。それにもかかわらず崇高な生を求めるとすれば、そこには人のかくありたいという夢が託されていると見て良いでしょう。

 それから三日の後、火山局の船が、カルボナード島へ急いで行きました。そこへいくつものやぐらは建ち、電線は連結されました。
 すっかりしたくができると、ブドリはみんなを船で帰してしまって、じぶんは一人島に残りました。
 そしてその次の日、イーハトーヴの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅あかがねいろになったのを見ました。
 けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖かくなってきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちょうど、このお話のはじまりのようになるはずの、たくさんのブドリのおとうさんやおかあさんは、たくさんのブドリやネリといっしょに、その冬を暖かいたべものと、明るい薪たきぎで楽しく暮らすことができたのでした。

 

 「グスコーブドリの伝記」より

 ⑤「詩人が見た夢」

 このようにオタク文化においてはしばしば宮沢賢治の詩文が引用されます。それではほんとうの宮沢賢治とはどのような作家だったのでしょうか。

 その崇高とも、高邁とも受け取れる世界はいまも日本中に熱狂的なファンを抱えていますが、まさにそのために偶像化されその解釈が狭まってしまっている一面もあるでしょう。

 その意味で押野武志『童貞としての宮沢賢治』は面白いです。

 挑戦的な、挑発的といっても良いタイトルですが、じつはこの題名は的確に内容を表しています。この本が描写しているのは、潔癖なまでに性を拒絶しようとし、そうし切れなかった「童貞」としての賢治です。

 押野は賢治を「聖人」ではなく「哀しみの人」として描き出します。

 賢治にある種の幻想を仮託する人からすれば、噴飯ものの一冊かもしれません。

 ですが、より広く、緻密に賢治を読んでいこうとする者にとっては、興味深い解釈を提示してくれる本といえるでしょう。

 じっさいのところ、現実の賢治は「聖人」だったのでしょうか、それとも押野が描き出したような「哀しみの人」だったのでしょうか。

 もちろん、そのほんとうのところはわかりません。賢治が遺した日記や文学作品などのテキストからある程度は類推できるでしょうが、真相は不明です。

 ただ、もちろん、あくまでもひとりの人間でしかない賢治が聖人であったはずはありません。

 ここでいう聖人とは、あらゆる意味で地上的なものを超越した人間を指します。かれは詩人として稀有な才能に恵まれ、またあきらかに地上的なものを超えた世界を志向してはいましたが、それでもただの人間にしか過ぎなかったでしょう。

 そこで、どうしようもなく矛盾が露呈します。葛藤が発生します。その矛盾と葛藤こそが賢治の作品が人を惹きつける理由なのではないでしょうか。

 同じ文学者であっても、たとえば武者小路実篤ははるかに無邪気に善性を称揚しています。しかし、少なくとも今日、実篤の小説はあまりにも単純で、素朴で、それほど魅力的に思えません。

 もちろん、そこにはある種の素朴さの魅力はあるでしょう。だが、わたしは賢治の矛盾と葛藤、挫折と屈折にこそ強く惹かれます。

 賢治は生きたまま、人間のまま、神のように無私の境地を目指そうとしたように思えます。天地一切の万物を差別しない悟りの境地。

 ですが、そのような境地のまま生きていくことは不可能です。だから賢治の意図は挫折し、屈折せざるを得ません。

 それでもあきらめず無私であろうとしたところに賢治の凄みと、もしかしたら狂気があります。

 賢治の目的は、ひたすらに自分自身をだれかに贈与することにありました。全人類、全生物、全存在に対する「ピングドラム」の贈与。

 しかし、その一方で、かれは「自分自身がだれかからあたえられること」は潔癖に拒まなければならなかったのです。

 少しでも何かしらの形での報酬を受け取ってしまえば、それは聖なる自己犠牲の行為ではありえなくなってでしょう。資本主義経済に組み込まれたあたりまえの仕事へ堕落してしまうのです。

 だからこそ、かれはどこまでも無償の「純粋贈与」にこだわらなければならなかったのです。

 しかし、そのようにして「ただ贈与するだけの存在」として、世界への供犠(サクリファイス)として自らを規定するとき、その先に待つものは死のみです。

 世界から何も受け取らないとは、世界との関係を断って孤立することだからです。

 もちろん、賢治はそのことをわかっていたでしょう。それでもなおかれは、世界とのエコノミカルな、あるいはエロティックな交流を拒絶するのです。

 かれは超人だったのでしょうか。無垢な聖人だったのでしょうか。そうではありません。かれはようするにひとりのあたりまえの俗人であり、あえていうならその傑出した文学的天稟を除けば凡人でさえありました。

 性欲にも悩まされました。ですが、そうにもかかわらず、かれはひとりのグスコーブドリであろうとしたのです。

 何という矛盾でしょう。必然、それは峻烈な自己否定へと至らざるを得ません。

 辛かったでしょう。苦しかったでしょう。わたしはその辛苦に、真に人間的なるものを感じ取ります。

 少し見方を変えてみれば、詩人が見た夢は性的葛藤に満ちた血まみれの夢です。それはきわめて歪んで、生々しい。

 しかし、それにもかかわらず、賢治はあくまで性的なコミュニケーションを拒みます。その葛藤はきわめて現代的なテーマといって良いでしょう。

 このような賢治にひきこもりなどの「コミュニケーション障害」に通じるものを見ることは自然でしょう。

 じっさい、聖なる境地をめざし自己犠牲の夢想に耽る一方で、異性であれ同性であれ性的な接触を拒んだその態度は何とオタク的なのでしょう。

 牽強付会ではありません。かぎりない奉仕的な精神を持ちながら、一方でどうしても「愛されること」を受け入れられないその心理は、現代の「非モテ」などにもたしかに一脈通じています。

 先ほどまで見てきたように、オタク文化において性的なものと神聖なものは混然一体としながらついに同化することがないように見えます。賢治においてもそれは変わりません。

 かれの世界において、「聖なるもの」と「性的なもの」は分離し、独立して並立するにとどまっています。かれにとっては、関係性のエロティシズムはある種の堕落にすぎないのです。

 賢治は詠っています。

 この不可思議な大きな心象宇宙のなかで
 もしも正しいねがひに燃えて
 自分とひとと万象といっしょに
 至上福祉にいたらうとする
 それをある宗教情操とするならば
 そのねがひから砕けまたは疲れ
 じぶんとそれからたったもひとつのたましひと
 完全そして永久に
 どこまでもいっしょに行かうとする
 その変態を恋愛といふ
 そしてどこまでもその方向では
 決して求め得られない
 その恋愛の本質的な部分を
 むりにもごまかし求め得ようとする
 この傾向を性慾といふ」

 ここでは「正しいねがひ」に燃えた「宗教情操」こそが至上であって、「恋愛」はより下等な変態であり、「性慾」は「どこまでもその方向では決して得られないその恋愛の本質的な部分をむりにもごまかし求め得ようとする」ものとして定義されています。

 賢治の天才は性的なものを孕みながらどこまでもそれを拒絶しようとするのです。それはどこまでも潔癖に純潔を保とうとする「童貞」の精神であり、オタク的なものに直接につながっています。

 本来、その矛盾を統合し昇華することは不可能ではありません。そもそも矛盾など存在しないのですから。

 そのことはたとえばホドロフスキーを見ればわかるでしょう。かれの作品では性的なものと神聖なものはあたりまえのように共存しています。猥雑と神聖を分かつものはただ見る人の意識だけです。

 しかし、賢治はエロティシズムを否定し、セクシュアリティを拒絶し、あくまで宗教的な境地を志向しました。

 それは崇高な行為かもしれませんが、同時に、オタク的な怯懦でもあります。ただれた「恋愛」や「性慾」に対して怯えを感じるからこそ、かれは高等な「宗教情操」を求めたのではないでしょうか。

 くり返しますが、こういった「性的なもの」や「愛されること」への拒絶は、現代のオタクや「非モテ」にも見られる属性です。

 いや、オタクは性的なものを求めつづけているではないか、非モテは「愛されること」に強く飢えているではないか、そのように思われるかもしれません。

 ですが、そのようにして性的なものを求めながらじっさいの性的な行為に嫌悪感を抱えるオタクは少なくないし、少なくない非モテの人々はむしろ現実の「愛されること」から逃避しつづけているように思えます。

 「愛し、愛される」というエロティックな交流は、あまりにも生々しく、見方によって醜怪ですらあります。

 それはオタクが夢見る美しいラブストーリーではありえないのです。だから、賢治がそうであったように、オタクは物語のなかに美しい夢を求めつづける。そういう傾向はあります。

 『春と修羅』にせよ、『銀河鉄道の夜』にせよ、賢治の詩や童話はあきらかに異次元的な高みに到達していて、わたしたちに「聖なるもの」を感得させてくれます。

 ですが、それはただ綺麗で潔癖だから人を感動させるわけではありません。その作品が人としての数多くの矛盾を含んでいるからこそいっそう胸に迫るのです。

 賢治の矛盾はわたしたちの矛盾です。その矛盾を現実的な形で統合することはやはりむずかしいのでしょうか。

 ⑥「性と聖を統合し昇華する」

 賢治は聖なる「宗教情操」を求め、「恋愛」や「聖慾」を一段、二段下のものとみなしました。

 しかし、世の中には「性的なもの」のなかにこそ「聖なるもの」を見いだす人もいます。

 たとえばアダルトビデオ監督の代々木忠がそうです。代々木の一連の著作は、そのすべてが性に関するものですが、かれはそこで徹底してエロティシズムの真髄を追い求めています。

 代々木は自分が監督したビデオに登場する女性たちの性的絶頂(エクスタシー)のなかに「聖なるもの」を見いだしました。

 かれは自分が見た「意識の変容」を説明するため、稀代のオカルティスト・グルジェフの「水素論」を持ち出します。

 水素論といっても、科学記号の話ではありません。水素とはあくまで意識の段階を表すためのアナロジーです。

 もはやアダルトビデオの理屈というよりオカルトの領域に足を踏み入れている印象ですが、かれにしてみればそれが自分が見いだした「性なる聖なる生」を説明するために必要な論理だったのでしょう。

 代々木はその「水素論」を引用しつつ「意識のステージ」を説明していきます。意識が最も高いところにまでのぼったとき、人は真のエクスタシーに達するといいます。

 そして、かれは著書『アルティメット・エクスタシー』において、地獄のような性的体験をくり返しながらついにエクスタシーのステージに到達したある女優の言葉を記しています。

 

「男? 男ってね……わたし。わたしはわたしを敵に回してた。でも男の人も女の人も、わたしだから、一体になって当然なんだよね。わたしが、わたしなんだって、ふっと思ったの。
 あのね、この世のものとか、宇宙とか、そういうのが全部ひっくるめて、わたしの子宮の中にあるものなの。それは全部、自分だから、わたしは自分を見守っていかなくちゃならないんだと思った。誰かにそう伝えられたのか、自分で思ったのか、よくわからないけど、ポンとそう思ったの。
 そうしたら、胸の中のちっちゃい心みたいなものが、ぶわーっと広がった気がした。気のせいじゃない、っていうのは確信したんだけど、そのときはなにがなんだかわからなくて、ああ、そうなんだ、という気持ちだけがあったの」

 ここでは「性」と「聖」が矛盾なく言葉になっています。ここにおいてはもはや性はただ猥雑ではなく、聖は手が届かない高みにあるものではありません。それはひとつになって生を形づくっています。

 オタク文化においてもこのように性と聖は矛盾なく一体化できるのでしょうか。残念ながら、いまのところそうではありません。

 オタク文化においては、性と聖の関係は、どうしても不自然です。女性向けについてはわかりませんが、「男性向け」に話を絞ると、Keyの作品にせよ、TYPE-MOONの作品にせよ、ほとんど「感動的なセックスシーン」を見た記憶がありません。

 麻枝准や虚淵玄、奈須きのこといった傑出した才能が生み出した作品ですら、「性的なもの」と「聖なるもの」は分断されたまま統合されることがありませんでした。

 それでは、その内側にエロティシズムを胚胎しながら「聖なるもの」をめざすオタク文化は、ついに「性的なもの」と和解することがなかったのでしょうか。

 そもそも、なぜわたしたちは「人が生きていることそのもの」であるセックスを、しばしば汚いもの、支配的なもの、あるいは抑圧的なものとして描き出すのでしょう。

 また、なぜそのようにしてしかエロティシズムを感じ取ることができないのでしょうか。

 オタク文化においては、しばしばポルノグラフィの差別性、暴力性が指摘されます。

 ですが、わたしはべつだん、その反倫理性を問題視しようとは思いません。そもそも性とは、生とは、あたりまえの倫理的な要請に従順なものではありえないからです。

 日本美術史上最大の問題作といわれる「犬」シリーズを描いた会田誠は、著書『性と芸術』のなかで「宇宙の本質」から離れ、「形而下」の芸術を追及していくことを決心したプロセスを記しながら、芸術を「テーマ」とか「メッセージ」に還元しえない「ノンセンス」として語っています。

 非常に納得がいく意見です。ひとつ絵画に限らずおよそ表現とはそういうものでしょう。

 たしかに、作家が自分の表現に何かしらのテーマなりメッセージを込めることは良くあります。むしろ、そういった要素とまったく無縁の「完全なるノンセンス」のほうが少数かもしれません。

 しかし、単にあるテーマを伝えたいだけなら直接にそのテーマを書いたほうがよほどわかりやすいのであって、わざわざ「絵画」や「音楽」や「物語」という形を採る必然性がありません。

 芸術が芸術の形を取るには、そうでなければならない抜き差しならない必然性があるはずであり、それはわかりやすい言葉に還元不可能だからこそその形を取っているのです。

 それは倫理や道徳といったわかりやすい基準に綺麗に収まりません。

 人間という不思議、人間という混沌を、ただ不思議なままに、混沌なるままに表現したとき、しばしば反道徳的と見なされるものができあがるわけです。

 しかし、会田のいう「形而下」の芸術は、その実、「形而上」の世界、「宇宙の本質」とダイレクトにつながっていないでしょうか。

 舌を出して犬のごとくあえぐ四肢を切断された少女、その姿は、単にエロティックな残酷趣味という次元を超えて、この世界の本質に至ってはいないでしょうか。

 生身の人間としての限界を抱えていることと、それでもなお彼岸の世界をめざすことは、じつは一体の行為です。

 人は人として生まれ、人として死んでいきます。しかし、まさにその限界を抱えているからこそ「聖なるもの」を求め、遥かな高みにまで登ろうとするのです。

 『マクベス』のあの言葉、きれいはきたない、きたないはきれい、それは真実です。「きれい」と「きたない」は明確に分けられるものではなく、ただ人間の表面的な認識によって分けられているに過ぎません。

 オタク向けのポルノグラフィとして独特の性の世界を描き出している作家に田中ユタカがいます。

 かれの愛に満ちた幸福な性の世界は、一見して会田の暴力的な表現の対極にあるものにも思えます。しかし、その作品においてもやはりめざされているものは「性的なもの」と「聖なるもの」の統一です。

 その成果が最高傑作『愛人 AI-REN』です。この作品のなかで、主人公の無残な死とともにひとつの「問い」が投げかけられます。

ねえ先生
それがこの世の真実ですか?
本当は
懸命に生きようとする努力も
人を愛したり愛されたりする
悦びも悲しみも
すべては作りもののまぼろし
どうしようもなく
無力で無意味なものでしか
ないのではないですか?

 わたしたちはこの「問い」にどう答えるべきでしょうか。田中ユタカはみごとに答え/応えています。

 『愛人』は美少女エロマンガ家・田中ユタカだからこそ描けた傑作です。そこではまさに性と聖が一体化しグロテスクで美しい世界を描き出しています。

 かつて、賢治は純粋贈与を志向し「あたえる」ことは善であり聖であっても、少しでも「受け取る」ことは不純だと捉えました。

 だからこそ贈与者はひとかけらの感謝や賞賛の言葉を受けることすら許されず、たとえば「デクノボー」と呼ばれののしられなければならなかったのです。

 そこでは「一方的にあたえること」だけが称揚され「あたえ、また受け取る」関係性のエロスは拒絶されていたといっても良いでしょう。

 利他一方にだけ開かれた世界。それはたしかに美しいといえます。しかし、同時に偏狭ではないでしょうか。

 もちろん、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」とまでいった賢治が「ほんとうのさいわひ」を求めるなかで「個」に対する拘泥を棄却しなければならなかったことはわかります。

 賢治はあくまでエロティシズムならぬ「神なる愛」の境地をめざしました。そこにしか救いを見出だしませんでした。

 その不可能な境地への飛躍こそが賢治の文学世界を特徴づけ、その作品を無二の傑作にしています。

 しかし、わたしはその潔癖さに「人間的なもの」に対する拒絶を見ます。

 宗教的な境地とは、そのようにしてしか到達できないものなのでしょうか。人に恋してはならないのでしょうか。人を愛してはいけないのでしょうか。

 先に代々木が引用しているあるアダルトビデオ女優の言葉をもういちど振り返ってみましょう。

 あのね、この世のものとか、宇宙とか、そういうのが全部ひっくるめて、わたしの子宮の中にあるものなの。それは全部、自分だから、わたしは自分を見守っていかなくちゃならないんだと思った。誰かにそう伝えられたのか、自分で思ったのか、よくわからないけど、ポンとそう思ったの。

 「この世のものとか、宇宙とか」がすべて自分のなかにある。だから、「わたしは自分を守っていかなくちゃならない」。

 それは「性的なもの」の極北の形です。ここでは自分自身への愛着が宇宙そのものへつながっています。性と聖は統合され昇華されているのです。

 それは『愛人』におけるあのニヒリスティックな問いへの答えにもなるでしょう。

 人は愛しい。「わたし」も「あなた」も、みな。そういう「個」への愛着が宇宙全体へひろがっていく道があります。それが「性的なるもの」の究極の形です。
 きれいはきたない、きたないはきれい。ここにおいては、もはや、猥褻という言葉は完全に意味を失くしています。

 第七章「推し文化のスピリチュアルなかたち」

 違う これじゃない これでもない 違う
 人間証明書がない 予定外 俺が居ない
 やばい 忍び込め

 BUMP OF CHIDKEN「乗車券」

 ①「ふたつの殺人事件」

 この第七章では、いままでの六章とは方向を変え、アニメやマンガやアイドル、俳優やミュージシャンを「推す」人たちがスピリチュアリティを求める背景にあるものを分析していきたいと思います。つまり、わたしたちが生きている時代、社会、あるいは世界を語りたいのです。

 ひとまず、このようにいえるでしょう。わたしたちはいま後期近代、つまりリオタールが「大きな物語が喪失したポストモダン」と呼び、ジークムント・バウマンが「液状化したリキッド・モダニティ」と名づけたその過酷な時代で生存していると。

 まっとうな近代路線は至るところで破綻し、沈滞する経済状況のなか新自由主義論者たちは社会的に疎外された弱者に自己責任を押しつけます。

 そして、その自己責任論を内面化した弱者は湯浅誠がいう「自分自身からの排除」に至ります。そのようなことが社会各所でくり返されているのです。

 

 

 それはいまさらわたしなどが語るより、この本を読んでおられるだれもが肌感覚で理解しておられることでしょう。

 この時代性は当然ながらオタク文化にも相応の影響をあたえています。たとえば『進撃の巨人』や『鬼滅の刃』のウルトラヒットも、このような時代背景なしではありえなかったものでしょう。

 この章ではその時代性について語り、それとともに、この時代を象徴する事件やアニメ・マンガ作品について語ることとしたいと思います。

 まずは事件のほうから。昨今、若い男性による無軌道なテロが多発しています。先にふれた元首相の暗殺事件もそのひとつ。

 ひとつひとつの事件を数え上げることはしませんが、昔はあまり見なかったタイプの犯罪がいくつも起こっているように思えます。

 もっとも、数値的に見れば日本の治安は改善していっているわけで、あまりショッキングな事件に注目することは危険ですが、それにしても同種の事件が際立って多い印象を受けます。

 岡田尊司が「アベンジャー型犯罪」として語ったタイプの事件。

 「アベンジャー」とは「復讐者」を指します。複数の犯罪事件の背景に岡田は「恵まれない者たちの社会に対する復讐」を見て取ったのです。

 この見立てはおそらく正しいでしょう。そして、そういった犯罪事件のなかで特に「オタク的なもの」に強く関連性があるものがふたつあります。

 ひとつは加藤智大による秋葉原無差別殺傷事件であり、もうひとつは青葉真司による京都アニメーション放火事件です。

 特に後者はそのルサンチマンのターゲットを数々の名作を生み出してきた京都アニメーションスタジオに向けたもので、アニメオタクコミュニティ全体に衝撃をあたえました。

 いったい犯人の動機はどこにあったのでしょうか。いまなお、その「闇」は深いものがあります。

 とはいえ、このような大量殺人事件が起こると、識者やマスメディアによって即座に、ほとんど反射的に何らかの物語が編まれます。

 そういった安易なナラティヴはしばしばいいかげんで実証性を欠いており、わかりやすく犯行動機を言語化して安心しようとするむなしい努力であるに過ぎません。

 加藤にせよ、青葉にせよ、ほんとうの意味でかれらが何を考え、その犯罪を実行したのかはわからないのです。

 しかし、このふたつの事件も含め、こうも「アベンジャー型」と思われる事件が頻発している以上、背景に共通するものがあるのはたしかでしょう。

 世界的に見ても同種の事件は少なくありません。複数の独立した事件の背景にある要因、それは「社会の病理」なのでしょうか。

 この種の事件において犯人の役割を背負った加藤や青葉のような人物像を、インターネット屈指のインフルエンサーとして知られる西村博之は「無敵の人」と呼んでいます。

 一切守るべき財産も人間関係も持たず、それ故に罪を犯すことに躊躇も持たないという意味で「無敵」という意味です。

 西村によれば、こういった人物が犯罪に走ることは当然のことです。かれらには法や倫理や常識を守ることで得られるメリットが何もないからです。

 かれらにとって、そういった観念は、ただ自分を縛りつけるというデメリットだけがあるだけなのです。

 そのため、かれら「無敵の人」たちはその孤独と憎悪を社会に向ける。そう説明されます。

 しかし、単に「失うもの、守るべきものがない」から暴力に走るという説明は、少なくともわたしには十分にこういった犯罪の実態を解説し切っているようには思えません。

 それはたしかに一面でかれらが「法を守らない」理由を説明してくれるけれど、それでも殺人や放火のような極度に暴力的な犯罪に走る裏には、もっと積極的な何かがなければならないと思われるのです。

 原田和弘『実存的貧困とはなにか』では、その「何か」を社会的承認の欠如に根ざすルサンチマンに求めています。

 ルサンチマンは日本語では恨みや嫉みと翻訳されますが、ニーチェによれば、無力感による切歯扼腕の感情です。

 『ツァラトゥストラ』や『善悪の彼岸』にはルサンチマンの構造がくわしく記されています。無力な人間こそがルサンチマンを抱く。そして、その無力さを空想的に解決するために妄想に耽るのです。

 ですが、じっさいには、おそらくはニーチェの想像をも超えて、いま、ルサンチマンを抱えた人間たちは悪魔的事件を起こしています。

 それは明確な主義主張を欠いたテロリズムであり、しばしばターゲットは「だれでも良かった」と説明されます。

 ほんとうに「だれでも良かった」のかは疑問の余地もありますが、少なくとも、明確な怨恨関係に根ざす犯罪とは性質が異なっているでしょう。

 かれら、主観的な意味での「アベンジャー」たちは、特定の個人への恨みから暴力に走ったわけではありません。

 かれらが恨んでいるとすれば、それは自分をかぎりなく劣位に置くこの社会そのものに他なりませんでした。

 かれらはオタク文化に「救い」と「癒やし」、そして「つながり」を見いだすことができませんでした。かれらがひたすらに見つめたのは自分自身であったといえます。

 それでは、かれらをそれほどまで苦しめたこの社会の形とは何だったのでしょうか。

 ひと言でいうなら「格差」でしょう。このふたつの事件を通して、わたしたちが発見する事実とは、オタクとして趣味に「没頭」して幸せになる能力にも、じつは格差があるということです。

 オタクならだれもがその文化に「救い」や「癒やし」や「つながり」を見出せるわけではないということ。

 加藤や青葉は、積極的に「オタク的なもの」に魅力を見つけだしたというより、他のあらゆる分野に希望を見つけることができず「オタクになるしかなかった」のかもしれません。

 しかし、オタクの世界においても、かれらは幸せになれず、そのルサンチマンを無辜の人々に向けるしかなかったのです。

 すべてが自己責任とされる格差社会において、オタク文化のなかに「聖なるもの」を発見することに失敗したふたりの人間の悲劇。「オタク的なもの」はかれらを救いませんでした。

 つまり、これが真実なのでしょうか? 人生の初めにおいて「愛されること」に失敗した人間は、ほとんどあらゆる失敗者をも包括するように見えるオタク文化のコミュニティにおいてすら、敗残者であるしかないのでしょうか?

 わたしは思います。もし「愛されるか、愛されないか」によってすべてが決まってしまうのなら、人間の幸福は何もかもみな他者によって決定されてしまうことになり、自分でできること何もないといえます。

 しかも「愛されること」はほとんど偶然の結果であり、正しく行動したからといって人に愛されるとは限らない。人間の生はそれで決定されてしまう性質のものなのでしょうか?

 そういう一面があることを認めても、希望を求めたいものです。「だれにも愛されなくても、だれかを愛すること」はたしかに不可能に近いかもしれません。

 しかし、一見して孤独にしか思えない自分がじつは営々と続く愛の連鎖のなかに生きていることに気付くことはできるのではないでしょうか。

 そのための方法が「推し」からの愛の贈与に気づくことだと思うのです。

 「推し」はもちろん、ある特定の個人に対し愛を注いでいるわけではありません。それはどのような「ガチ恋」のオタクも認めざるを得ないでしょう。

 しかし、それでも「推し」の愛は太陽光線のように人に降りそそぎます。その「愛」を受け止め「推し」を愛することに決めたとき、世界は愛に満ちあふれた場所になります。

 それがオタクが救われることの本質です。

 人がこの戦場のような世界で生きていくための大いなる指標。それは「愛されること」というより「愛されていたことに気づくこと」であり、「みずから愛すること」なのです。

 ②「共食いの匣」

 いま、わたしたちは以前とはまったく異なる形となってしまった社会を生きています。それは、かつてであれば信じられたもの、あるいは少なくとも信頼の一端を置けたものがまったく機能しなくなっている状況です。

 先述したようにジークムント・バウマンはこの現代という時代を「液状化する社会」として定義しました。

 このような社会においては、確固として動かないものはほとんど何もありません。すべてのものがあたかもフラスコのなかの液体のように揺れ動くのです。

 こういった極度に流動的な社会では、ほんとうの意味で信じるべきものはきわめて少なくなります。

 その昔は機能していた「大きな物語」、つまり社会が共有する共同幻想としての価値も見失われ、いったいどこにたしかなものを見出だせば良いのか、じつにあいまいなのです。

 そのような頼るべき「大きな物語」がまったく失われた、あるいは少なくとも極度に見つけづらい社会性を背景にしてこそスピリチュアルな文化は繁栄しているのでしょうし、また、オタクになる人が増える一方なのもそこに原因があるでしょう。

 わたしが主張するように、オタク的な推し文化のなかに聖性を感じさせるものがあるとしたら、この時代において推しを必要とする人が増えつづけていることもべつだん不思議ではなくなります。

 ですが、いずれにせよ、状況は過酷です。いたるところに罠が仕掛けられた迷宮を行くかのような人生が多くの人に待ち受けています。

 そして、その罠にひっかかったが最後、待ち受けているものはデッドエンドであったりするわけです。

 任天堂のロールプレイングゲームであればやり直すこともできるでしょうが、現実ではそうはいきません。すべての時間は一方向にしか進まないわけなのです。

 そしてまた、きびしさを増しつづける社会状況をそのままに鏡写しにするかのように、きわめてきびしい状況を描く物語が頻出して来ています。

 もちろん、そういった作品は以前にもありました。あるいはもっと陰惨な、過酷な作品もあったことでしょう。『デビルマン』であるとか『寄生獣』であるとか。

 最もメジャーで端正であることを求められるはずの少年マンガやテレビアニメのシーンですら、そのようなダークなストーリーが平然と紛れ込むことがあたりまえにあったのが、日本のエンターテインメントの歴史です。

 しかし、そうではあっても、いままではそれらの作品はあくまで「異端」であり、その時代の主流はべつのところにあったでしょう。だからこそ、そういった作品は衝撃的でもあったのです。

 ところが、いまやダークでネガティヴな物語はある種、「時代の王道」となりつつあります。大正時代の吸血鬼退治を中心とし、ある種、耽美でカルト的とすらいえそうな要素をてんこ盛りにした『鬼滅の刃』の大ヒットはその象徴的な「事件」でしょう。

 『鬼滅の刃』の登場と前後して、『ジャンプ』の世界は大きく変わって来つつある印象を受けます。

 かつて、「友情、努力、勝利」という、高度経済成長的な生産的価値を掲げていた『ジャンプ』は、いまや「サバイバル」を主眼に据えているように見えます。苛烈を究める状況下における「生き残り」のゲーム。

 そのなかでも高い志を掲げた『鬼滅の刃』が抜きん出た魅力を誇ったことは納得がいくところですが、その他の作品もさまざまにシビアなシチュエーションを描き出しています。

 『少年ジャンプ』のウェブサイトである「ジャンプ+」に連載された『タコピーの原罪』もそのひとつ、そして最も酷烈なひとつです。

 『タコピー』の中心となるのは、宇宙からやってきたなぞの超常的存在、宇宙人(?)のタコピーです。

 ふざけたルックスと口調を持つこの奇妙なエイリアンは、地球にやって来てすぐにひとりの少女と出逢います。

 彼女は、読者の目から見るとあきらかに常軌を逸した惨状に置かれているのですが、タコピーは気づかず、結果として、彼女は幼くして自殺してしまいます。

 イノセントな超越的存在と死に魅入られた少女。こういった設定はある種、露悪的にも思えます。

 しかし、じっさいのところ、『タコピー』においてはとくべつ露悪性に意味があるわけではありません。それは演出をていねいに見ていけばわかることです。

 『タコピー』の演出は、むしろ抑制的なほどで、ショッキングな描写を最大のインパクトで描き出そうとはしていません。少なくともわたしはそう感じます。

 もし、作家があくまでインパクトを重視していたなら、少女は傷だらけで登場することはなかったでしょう。

 むしろ健康な状態から地獄へ突き落としたほうがのちの展開の衝撃を倍増させられるからです。

 その意味で、『タコピー』は特に露悪的な展開で印象づけようとしている作品ではないと考えられます。

 そもそも、いまとなってはその過酷を究めるいじめと自殺といった展開も、ただそれだけならとくべつショッキングとはいえないでしょう。

 何しろ主人公の少女はその後、蘇生して暴走し、あらゆる悪徳に手を染めていくのです。最初の自殺くらいで驚いていては楽しみ切れない作品だといえそうです。

 この手の傾向の作品の最初期のものは、やはり第八章でふれる『魔法少女まどか☆マギカ』になるでしょうが、『タコピー』の演出はショックを最大化しようと工夫していた『まどマギ』とは異なります。

 むしろ、『タコピー』においては、本来、ショッキングであるはずの描写は「あたりまえのもの」として処理されているようにすら思われます。

 少女が自殺したり暴力を振るわれたりという、悪夢そのものであるはずの描きは、ここではもう衝撃的なものというよりは、「世の中にあって当然のこと」として処理されています。そ

 れは、いっそ衝撃的であることよりももっと衝撃的なことではないでしょうか。

 そういった、「あたりまえのもの」としての残酷描写を洗練させた形で描いているのが、たとえば『チェンソーマン』です。

 『チェンソーマン』においては、過酷で残酷な世界は、もはや理不尽な設定というより所与の前提であるかのように描かれます。

 もちろん、そこから成長なり発展が描かれてはいるのですが、少なくとも初期設定の徹底した救いのなさ、そしてその淡々とした展開は異常な印象です。

 描写としてはコミカルですらあります。そこにはのちに語る『リコリス・リコイル』に一脈通じるような、「突き抜けたあかるさ」があるでしょう。

 しかし、そのあかるさを全面的に肯定するべきものとして見ることはやはりできません。

 そこにあるものは多くの犠牲を払い、本来あってしかるべきものをいくつも捨てたあとに残ったあかるさでしかないからです。

 『チェンソーマン』の描写は『タコピー』と同様、苛烈に過ぎるほどですが、しかしそこにある酸鼻と陰惨はそれほど強烈な印象を残すわけではありません。

 ただ酸鼻な、ただ陰惨なだけの作品なら、もっと上を行くものがいくつもあるでしょう。

 『チェンソーマン』の凄みは、あくまで少年漫画として、エンターテインメントとしての構造を確保しながら狂った社会状況をそのままに描き出しているところにあります。

 読んでいて、いったいこれは何なのだろう?と思ってしまうほどです。

 ここには確固として信じられるものは何もないようにすら思われます。そういった状況下で、どのようにして正義は、少年漫画は、エンターテインメントは成立するのでしょうか? あるいはそれらはもう時代遅れの観念にしか過ぎないのでしょうか?

 『チェンソーマン』はどこまでも突き詰めていきます。

 主人公である「チェンソーマン」そしてデンジはそれでも少しずつ信じられるものを探し、求めていくのですが、それはあっさりと奪われます。

 何という展開! ここでは人がいつ死ぬかわからないという「突然死」のリアリティもまた、あたりまえの前提と化しているのです。

 ここにおいてまた、主人公は信じるべき、頼るべきものを見失います。

 社会学者のアンソニー・ギデンズは「後期近代は社会構造が激変し、価値規範も流動化するなど社会全体のあり方が不透明になっているがゆえに、どのような人生設計をしても、ことあるごとにプランの見直しをせざるを得ないような個人のあり方が求められている」とし、それを「再帰的自己」と名づけました。

 このような不安定で不たしかな自己は、不透明な社会のなかで揺れ動きつづけます。信じるべき宗教の権威は凋落し、科学や進歩といった幻想すらもう見失ってしまった。

 この時代、もう何を信じ、何を導きの星として見上げれば良いのか知っている者はだれもいないのではないでしょうか。

 「ジャンプ漫画」である『タコピー』や『チェンソーマン』が示しているものはそのような社会の現状です。

 つまりは『タコピーの原罪』や『チェンソーマン』は破滅的に壊れてしまったこのポストモダン社会の現実を克明に描いているといえます。

 このような状況下で「宗教なき霊性」としてのスピリチュアリティを求めることになる心理はよくわかるのです。

 何度もくり返すようだが、いまになってもスピリチュアルなものの需要はやはりあるのです。

 その欲望を満たすため、「いわゆるスピリチュアル」に手を出す人もいれば、オタク的な推し文化における推しにこそヒエロファニーを見る人もいるのでしょう。

 わたしとしては、後者を推薦するところなのですが。狂った時代。狂った社会。狂った世界。どこにも逃げ場はありません。

 わたしたちは、そのような物語に閉じ込められています。

 ③「悪の華、咲きそめる」

 『タコピーの原罪』、『チェンソーマン』と現代日本社会を象徴するマンガ作品を見てきましたが、ポストモダン社会の行き詰まりは先進国に普遍的なものです。

 次に、日本のオタク文化とは少し離れたところにあるハリウッド映画を取り上げておきましょう。『ジョーカー』です。

 世界的に広く話題となった作品だから鑑賞された方も多いでしょう。公開直後から賛否両論を巻き起こした文字通りの「問題作」です。それでは、この作品の「問題性」はどこにあるのでしょうか。

 ひとまず、それはひとりの絶望的に追い詰められた若者が犯罪に走り、殺人をくり返し、最後には悪魔のような悪役(ヴィラン)「ジョーカー」に変身する展開が現代社会を風刺していると受け止められたところにあります。

 『ジョーカー』は「悪の誕生」を描いた映画です。したがって、とりあえずはあらゆる不遇のなか生まれ育ったアーサーが悪の象徴「ジョーカー」にまで「成長」するプロセスを描いた物語と見ることもできます

 。社会に抑圧される一方だった未熟な個性がついに一人前のヴィランとして覚醒するまでを綴った悪のビルドゥングス・ロマン。

 ですが、そのような理解をすると、ひとつだけ意味がわからないシーンが残ります。不思議とこの映画のラストシーンはそれまでとつながっていないのです。

 そのラストシーンでは、精神病院に閉じ込められていると見られるジョーカーが登場し、不気味な余裕を見せます。

 このジョーカーとアーサーは不連続のキャラクターとして受け止めるしかありません。

 はっきりと断定する根拠こそ何もないが、ここで観客はひとつの想像に誘惑されるでしょう。

 つまり、いままでのすべての物語はこのジョーカーが想像したフィクションに過ぎないのではないか、と。

 そうだとすると、いったいジョーカーはなぜアーサーの物語を想像したのでしょう? その目的は何なのでしょうか?

 ここから先はどうしても憶測になってしまいますが、それは「社会に根ざす不幸と不遇のためにしかたなく犯罪をくり返し、ジョーカーにまでなるしかなかった」というアーサーのナラティヴが、現代社会においてきわめて説得的なものだからではないでしょうか。

 いまの社会において、暴力や犯罪を正当化するナラティヴとして、これ以上のものはないようにすら思われるのです。

 このような書きように反発を感じる読者も少なくないでしょう。

 アーサーは何よりもまず残酷な社会の被害者なのであって、そのためにしかたなく加害者に転化したに過ぎない。

 たしかにかれの犯罪、かれの暴力がきわめて露骨で残忍なものであることは事実だが、それはまさにかれを包摂しなかった理不尽な社会に対する復讐であるに過ぎず、ある意味では正当とはいえないまでも、当然な行為ですらあるのだ、と。

 つまり、アーサーの行為もまた岡田尊司がいうところの「アベンジャー型犯罪」なのだと。

 そのような見方が可能であることをわたしは否定するつもりはありません。それはこの映画を十分に楽しめるひとつの見方です。

 しかし、それではラストシーンのジョーカーの登場が説明できない。アーサーとジョーカーの不連続性が十分に解説し切れないのです。

 わたしにはむしろ、『ジョーカー』の作中で描かれるアーサーの物語のすべてが、ある種の犯罪者の主観的心象風景を物語化したものに思われます。

 つまり、それは「こんなにひどい目に遭っているのだから世界を攻撃しても当然だろう」という自己正当化のために編まれた物語であるように考えられてならないのです。

 もちろん、この場合、物語を綴り、あるいは編んだのはジョーカーですから、悪の化身としてのジョーカーが「このような物語なら自分の悪の行為を納得させることができるだろう」と考えたことになります。

 ジョーカーにとって、アーサーのナラティヴは自分の邪悪さを正当化するために役立つ一種のフィクションに過ぎないと考えられるわけです。

 だからこそ映画の最後で、アーサーならぬジョーカーは不敵に笑うのではないでしょうか。

 それは怖ろしいことです。

 ジョーカー本人は、その「人を犯罪者にする不幸と不遇の物語」がフィクションに過ぎないことをわかっているでしょう。

 しかし、ジョーカーによって「アーサーの物語」を聴かされた人々はそれに共感するに違いありません。

 「なるほど、このような事情があったら悪行を犯すこともしかたない」と納得し、共感する人もまた次々とあらわれることでしょう。

 それだけに留まりません。「自分もまたアーサーと同じく不幸で不遇な境涯に生まれ育ったから、ジョーカーのようになることも必然だ」と考える人も出て来るでしょう。

 じっさいにその人物がアーサーほど絶望的な人生環境に置かれているかどうかは重要ではありません。問題は、かれが「主観的に」そういった物語を生きていることなのです。

 そのような人物は、いつでも自分自身をジョーカーとして定義できます。かれは自己憐憫の歯ぎしりの末に、社会に対してどこまでも攻撃的になっていくに違いありません。

 かれにしてみれば、自分は何も悪くない。悪いのはすべて抑圧的な社会なのです。

 このようにして、世界に「悪」が広がっていく。映画の最後に登場するジョーカーが夢想したのは、このような事態なのではないでしょうか。

 もっとも、このような見方はこの映画をあまりに悪意に受け取りすぎているかもしれません。

 じっさいにアーサーが「成長」してジョーカーになったのか、それともジョーカーがアーサーを「想像/創造」したのか、明確に決定する要素は映画のなかには存在しません。どちらであるようにも受け止めることが可能です。

 だから、これはこの映画をどのように見るか、見たいかという観客の価値判断の問題になります。だからこそ、『ジョーカー』は激烈な賛否を呼んだのです。

 わたしたちは、アーサー/ジョーカーを冷酷な社会の哀れな犠牲者と見ることもできますし、むしろ社会のありようを自己正当化のために利用する狡猾な犯罪者と見ることもできます。そのいずれが正しいのでしょうか?

 おそらく、いずれも謬見とはいえないでしょう。そのどちらの見方も許容する二重性にこそ『ジョーカー』のバリューはあるのです。

 そのことを認めた上で、わたしは作中のアーサーに共感し切れないものを感じるのです。なるほど、アーサーは社会の犠牲者であり、復讐者であるかもしれません。

 ですが、かれの暴力はただかれを攻撃したものだけではなく、一切無関係のものにまで及びます。

 かれはたしかに一面ではどうしようもなく社会的弱者ですが、べつの面では手に入れた暴力で他者の人生を踏みにじる強者です。

 アーサーはかれ自身が最も憎んだ者になっているに過ぎないわけです。それをジョークというなら、これ以上に皮肉なジョークはないでしょう。

 たしかに、世の中には作中のアーサーのような必然的にルサンチマンを攻撃性に転化せざるを得ないようなむごい境遇に生まれた人間も少なくないでしょう。そして、そういう人間を一方的に弾劾したところで、問題は解決しないでしょう。

 この問題を解決するためには、そういった、ロベール・カステルがいうところの「社会喪失者(ディザフィリエ)」たちをふたたび社会的に包摂していく姿勢が不可欠であるでしょう。そこに異論はありません。わたしはそのことを認めます。

 しかし、問題なのは、アーサーのナラティヴはどんな人間にも利用可能だということです。

 たしかにアーサーは社会の被害者であり犠牲者であったかもしれません。しかし、そのことを「しかたないことだ。社会のほうが悪いのだから」と認めるとしたら、あらゆる犯罪が主観的には正当化されることになります。

 「悪いのは他人であり、自分は何も悪くないのだ」という物語にはそのような暗い魅力があるのです。それは人を責任と自制から解放し、自由にし――そして、ジョーカーのまがいものにします。

 その意味でこそ『ジョーカー』は危険な傑作だといえるでしょう。

 思えば、ジョーカーは『ダークナイト』においては複数のナラティヴで己の過去を説明し、その話を聞く者を、そして観客をも幻惑しました。

 『ジョーカー』におけるアーサーの人生のすべては、そのかれが用意した新しい過去、新しいジョークに過ぎないと見ることはできるでしょう。

 ジョーカーは知っているのです。現代において、こういったもっともらしくトラウマティックなナラティヴがいま最も人を惹きつけ、魅了することを。

 わたしは、この映画について、そのように判断するものです。

 ④「尊くもグロテスク」

 ここまで現代社会の歪さを象徴するような作品について記してきたわけですが、よりいっそう鮮烈な形でその歪みを見せる最新の作品があります。『リコリス・リコイル』。2022年、スマッシュヒットを遂げた傑作アニメです。

 しかし、一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもありません。

 第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのですが、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかないのです。

 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思います。

 さて、まず『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏なもの」を秘めた作品だということです。

 一見すると現代日本と同じように平和な社会を舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの少女たちがその平和を守るために命がけで戦っています。そして、じっさいにどんどん死んでいる。

 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズに説明されています。

 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的な問題があるのです。

 この「少女と銃」というコンセプトについて、原案のアサウラはインタビューでこのように述べています。

アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います。

 最初の時点から「少女と銃」がメインコンセプトだったわけです。すでに指摘されている通り、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品の系譜があります。

 虚淵玄の最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうですし、『NOIR /ノワール』などのアニメもあります。現在のアニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつのジャンルといっても良いかもしれません。

 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感をねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのでしょう。

 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕『Gunslinger girl』です。

 それは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和な社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通しています。

 また、このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されてもいます。

――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。

足立:アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分はDVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います。」

 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的なものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異があります。

 ひとつはパートナー役の大人がいないこと、もうひとつは少女たちが洗脳されておらず、自分の意思で戦闘に参加していることです。

  前者に関しては原案のアサウラの作風かもしれません。アサウラは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから。

 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的な意思で戦っているわけです。

 もちろん「自発的な意思なのだから問題ない」ということにはなりません。リコリスたちはみな孤児であり「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえます。

 リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。

 このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するとき、ひとつのカギとなります。この点に関して批判的に触れた記事がはてな匿名ダイアリーに投稿されています。

前線の少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたとき、リコリスが少女のみで構成される理由(※)や、少女を前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。

アサウラはバニラのころからこういうところがあって、物語を少女-大人(社会)という対比ではなく少女と少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクはブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分の老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。

 しかし、これはわたしにはやはり表面的な批判に過ぎないように思えます。「うやむやにしようとする」も何も、まったくうやむやになっていないだろうと。

 「社会の正義と平和を守る組織」としてのDAの欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられています。

――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。

足立:子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。

――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。

足立:確かな事実として、日本は世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーもあるかな?要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね

 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞の構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品を批評したことにはならないのです。

 そして、個人的な感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。

 つまり、この欺瞞的なディストピア/ユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。

 とすれば、この認識の上にさらに議論を重ねていくべきでしょう。

 ちなみに、上記の匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバ」であるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的なものでしょう。

 「現代日本では女子高生が最も警戒されないから子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。

 さらにその女の子たちのうちのふたりが喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているとは、ふつうに考えればありえないとしかいいようがない。

 しかし、だから駄作なのかといえばそうではありません。このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルなアクションストーリーというよりは一種の寓話を志向していると見るべきです。

 この作品はおそらく意図的にウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられているのです。

 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されています。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がないでしょう。

 まずはそこに込められた皮肉と寓意を見て取るべきなのです。

 ⑤「その都市の名はオメラス」

 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何でしょうか。

 それは「子供を犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます。まさに上記の匿名ダイアリーで批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本のアニメ産業の欺瞞でもある。

 評論家の杉田俊介は、新海誠監督の映画『天気の子』について、このように書いています。

 ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本的アニメを批判するアニメ、「アニメ化する日本的現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本的現実」とは、少女=人柱=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである(物語の最初の方に、風俗店の求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜がチンピラに騙されて新宿の性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的な演出だろう)。

 わたしは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白い。

 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。

 「「アニメ化する日本的現実」とは、少女=リコリス=アイドルの犠牲と搾取によって多数派が幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。

 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会の構造そのものを批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメ」であるわけです。

 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾と欺瞞と偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。

 これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあります。その意味で、『リコリコ』は、じつは一種のアイドルアニメなのだといえるかもしれません。

 いや、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。

 先述の『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』をふたたび取り上げてみましょう。

今日、アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイルや可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止」ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズム、SNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実にアイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルやトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。

 アニメの場合、美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンがキャラクターに「身勝手な欲望や規範を押し付け」て「消費」している構造は同じです。

 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞の構造は現在の日本社会全体を象徴するものでもある。

 『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題をテーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます。

 もっとも、この児童搾取の問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできるでしょう。

 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座にドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を思い浮かべることは論を待ちません。

 この小説のなかで、イワン・カラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去に原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教の論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります。

 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。

 俺は一般的に人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一、相手が子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。

(中略)

まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己を防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的に拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!

 つまり、イワンはここで子供を犠牲にして成り立つユートピアの欺瞞を告発しています。これは『天気の子』や『リコリコ』のテーマに直接的につながる主張であることのように思えます。

 また、SF作家のアーシェラ・K・ル・グィンはこのエピソードを踏まえた上で(彼女によれば書いているときは意識していなかったということですが)、「オメラスから歩み去る人々」と題する寓話的な短編を書いています(『風の十二方位』収録)。

 これは、あらゆることが完璧に成立した理想都市オメラスの物語なのですが、じつはそのオメラスには恐ろしい欺瞞があって、ある小さな穴倉にひとりの子供が精霊への生け贄として閉じ込められているのです。

 この子供はその暗い牢獄のなかであらゆる権利を剥奪され、虐待され、自分自身の糞尿の上に寝そべって暮らしているのですが、オメラスの住人のだれひとりとしてこの子供に優しい言葉ひとつかけてやろうとはしません。

 というのも、精霊との契約により、もしこの子供を救ったらオメラスそのものが崩壊することになっているからです。

 オメラスの大半の住人はこの事実を知ったときショックを受けますが、そのうち忘れてしまいます。

 ただ、ごく少数の人々はどうしてもそのことを忘れられず、だからといってオメラスを壊してしまうこともできなくて、ただ、ひとり静かにオメラスを歩み去るのです。

 『天気の子』を観た人なら、この作品がこの「イワンのテーマ」、あるいは「オメラスのテーマ」に対してひとつの答えを出していることがわかるでしょう。

天気の子

天気の子

  • 醍醐虎汰朗

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 この映画はまさに「欺瞞の理想都市オメラスから歩み去るのではなく、それを崩壊させる」物語なのです。そしてまた、オメラスが崩れても、それでも人は生きていくという物語でもあります。

 これは少なくとも公開当時としては決定的に新しい決断でした。たったひとりの子供を犠牲にして成り立つ平和と繁栄があるとしたら、その子供ひとりを救うためにでもその平和と繁栄は亡んでしまってかまわない。そういう倫理的な判断がその背景にあるように思えます。

 一方の『リコリコ』では、リコリスたちの犠牲を背景にして成り立つ「オメラス」としての東京、あるいは日本社会は必ずしも否定的に描かれてはいません。

 そのことを批判的に告発することはできるでしょう。しかし、わたしはあきらかに『リコリコ』はその批判をも織り込み済みで、意図して「現在の日本社会の現実」を描出していると考えます。

 したがって、単になぞの組織「DA」や「アラン機関」の悪を批判し告発するだけではこの作品を正しく批評したことにはならない。

 『リコリコ』が語っているのは、わたしたちが依拠しているこの「平和な日本社会」そのものがひとつの欺瞞理想社会オメラスなのであり、少数の人間たち(それも子供たち)の犠牲の上で成り立っているという現実なのです。

 いい換えるなら、『リコリコ』はぼくたちに対して「ほんとうにわずかな子供たちを救うためにこの平和を崩しますか? 理想の平和を崩壊させますか?」と問いかけて来ているといっても良いでしょう。

 『カラマーゾフの兄弟』のイワンやル・グィンの描く「オメラスから歩み去る人々」のように、ただ欺瞞のユートピアを拒絶するだけならためらわない人も少なくないでしょう。

 しかし『天気の子』のように、それを崩壊させてしまう選択を選ぶことがほんとうに「絶対の正義」でしょうか? リコリスたちは、だまされ、利用され、搾取されているかもしれないとはいえ、一面では誇りをもって戦っているというのに?

 『リコリコ』は結局、『天気の子』のように欺瞞を告発し、欺瞞的ユートピアとしての「日本社会≒オメラス」を崩壊させて終わるような結末にはなりませんでした。

 DAとリコリスによって維持される日本の平和は醜悪なまでに欺瞞的ですが、それでも平和には違いないのであって、一概に否定して終わることができるものではないのです。

 ここら辺の「必要悪としてのディストピア/ユートピア」の描写はアニメ『PSYCHO-PASS』に通じるものがあるといって良いでしょう。

 『PSYCHO-PASS』の世界でも、欺瞞的な平和が続いているわけですが、それは必ずしも「悪」として告発すれば良いというものではなく、それを倫理的に乗り越えるためには「より良い社会のモデル」を提示するしかないわけなのです。

 そして『PSYCHO-PASS』はそういうSF的にマクロなテーマを扱う方向に進んでいますが、『リコリコ』はそういう物語にはなりませんでした。

 ここまで書いて来たことを踏まえた上で、『リコリコ』が決定的に新しいといえるのは、その欺瞞、その偽善、その矛盾にもかかわらず、作品のトーンが非常にあかるいことです。

 前出のインタビューを読む限り、このあかるさも意図して選択されたものであることがわかります。しかし、それはただ「暗いとウケないからあかるくしてみた」といった次元の話ではありません。

 『リコリコ』は表面的なあかるさと裏面の深刻な暗さが奇跡的なほどのバランスで成立していて、それがおそらくは人気のもとになっているのです。

 はてな匿名ダイアリーで批判されているように、ただ百合百合な女の子たちにガンアクションをやらせれば人気が出るなどということことは、じっさいにはありません。エンターテインメントはそのような甘いものではないのです。

 『リコリコ』の人気は、この「天国(ユートピア)のようでもあり地獄(ディストピア)のようでもある過酷な欺瞞社会」を「当然の前提」として受け入れつつ、なおかつ「突き抜けたあかるさ」で描くその斬新さの帰結です。

 べつの見方をすれば、『リコリコ』は日本アニメの歴史のなかで延々と語られてきた『新世紀エヴァンゲリオン』、『輪るピングドラム』、『進撃の巨人』、『BANANA FISH』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』といった「孤児たちのサバイバル」を描く物語の最新バージョンともいえます。

 いまさらこれらの作品の内実については触れませんが、つまりはこれらの凄愴な物語ではごくシリアスに語られていたことが、『リコリコ』では一見、ライトにコミカルに語られています。

 しかし、それは搾取の問題が消えてなくなったことを意味していません。そうではなく、その新自由主義的に残酷な構造を生まれながらにある当然な所与の前提として受け止めている新世代が出て来ているということ。それが『リコリコ』の「新しさ」であり「面白さ」だというのがこの記事の結論です。

 ⑥「実存的空虚の解」

 さて、前五節では『タコピーの原罪』、『チェンソーマン』、『ジョーカー』、そして『リコリス・リコイル』など、「ポストモダンな現代社会」を象徴するように見える作品を見てきました。

 いま、この種の非常にきびしい設定の物語はあたりまえに市場に登場し、人気を博しています。この路線の先駆的傑作として、たとえば『進撃の巨人』や『魔法少女まどか☆マギカ』などの名前を挙げることもできるでしょう。

 当然ながら、これらの作品は過酷化する社会状況を反映しているものと思われます。バブル経済崩壊後30年を経て、現代日本の社会状況は相応に過酷なものとなっています。

 それがこの時代に新たに登場してきた作品のリアリティの根底をなしているのでしょう。

 生きることは辛く、苦しく、厳しい。そういった認識はもはや「あたりまえのこと」であるようです。

 いったいわずか数十年前にだれがこのような惨状を予想したでしょう? あらためてよせては返す「時」のうしおのその残酷さに思いを馳せずにはいられません。

 しかし、そのような感傷にひたっている余裕すらもう十分にはありません。だから、最新の傑作たちは「昔は良かった」などと嘆いてみせる老人たちを置き去りにして「それでも、この過酷な世界でどう生きていくか?」、そのヴィジョンを競うように描出してみせます。

 『タコピーの原罪』や『ジョーカー』はこの世界の無惨さを暗く救いのない絶望的なヴィジョンで描き、『リコリス・リコイル』に至っては絶望すら超えてある種、あかるい展望を見せてくれました。

 ただ、そこでもその世界がどうしようもなく歪み、狂っていることは変わっていません。『リコリコ』のあかるさは、その歪みを正すことをあきらめてしまったその結果に過ぎないようにも感じられます。

 この社会で人々が絶望し、ある意味で第一節で書いたようなテロ事件、あるいは第三節で触れた映画『ジョーカー』のような殺人事件が起こることはもうどうしようもない必然なのでしょうか。

 もちろん、マクロ的にはそのような事態を放置することは許されません。早急に何らかの社会政策が必要でしょう。ですが、わたしたちは皆、ミクロな人生を生きています。個別にできることが何かあるでしょうか?

 どうやら、ここでも、わたしたちは「虚無」と向き合っているようです。現代社会における生活が苦しいのは、ただ単に経済的に追い詰められているからではありません。

 ただ経済だけの問題なら、人類史においては、あるいはわが国の歴史においても、もっと苦しい時代は多々あったことでしょう。

 加藤や青葉が凄惨な犯罪に走らざるを得なかったのは、ただ単に生活が苦しかったからだけではなく、生きていること、これから先も生きつづけることに意味を見いだせなかったからだと思われます。

 この世は生きるに値しない、ただ憎悪と暴力だけが自分を定義してくれるというニヒリズム。まさに「虚無」の感覚。

 こういった「生きることはむなしい」という感覚を、かつて、精神科医ヴィクトール・フランクルは「実存的空虚」と呼びました。この実存的空虚こそが、人をニヒリズムへと誘い「何もかも無意味だ」と感じさせます。

 それでは、わたしたちを自殺や暴力に追い込む、この空虚の感覚に立ち向かうことはできるでしょうか。それとも、ほんとうにすべてはみなむなしいばかりで、生きることは無意味で無価値なのでしょうか?

 フランクルによれば、これは間違えた問いです。かれはいいます。人生に意味があるのかどうかが重要なのではなく、わたしたちのほうこそが人生から意味を問いかけられていると考えるべきなのだ、と。

 フランクルが考案したロゴセラピー(実存分析)の入門書である『ロゴセラピーのエッセンス 18の基本概念』において、かれは患者から「わたしの人生の意味は何ですか」と問いかけられた場合について書いている。

 医者がこの問いに一般論として答えを出せるものなのかどうか、わたしは疑問です。なぜなら人生の意味は、人によって、日によって、時間によってすら異なるからです。ですから重要なのは、一般的な人生の意味ではなく、ある特定の瞬間における、ある個人の人生の具体的な意味なのです。一般論としてこの質問をすることは、チェスの世界選手権王者に対して「チャンピオン、この世で一番いいチェスの手を教えてくださいますか?」と質問するようなものです。

 つまりは普遍的、一般的な意味での「人生の意味」は存在しない。ただ、個別の人生には個別の意味が存在するし、それで良いのだというのです。

 さて、久保(川合)南海子『「推しの科学」』と題する新書があります。ライトなタイトルからは想像しづらいのですが、「プロジェクション・サイエンス」という最新の認知心理学について解説した本です。

 プロジェクション・サイエンスとは、人が「世界」に何らかの主観的な「意味づけ」を行う、そのメカニズムについて分析した科学のこと。

 つまりは人が世界に意味を投射するとき、ただの物体はただの物体ではなくなるということです。プロジェクション・サイエンスはわたしたちにその仕組みを教えてくれます。

 たとえば、単なる石であれ、樹木であれ、そこに「これは神聖な物体である」という意味が投射されたとき、わたしたちは「聖なるもの」を感じ取ることができるわけです。

 ここまで幾度も取り上げているヒエロファニー、宗教発生のメカニズムです。

 人はプロジェクションを通して、世界に意味を見いだします。プロジェクションのメカニズムがあって初めて、本来、徹底して無意味な「ただある」だけの世界に、何らかの意味が宿るのです。

 先にも述べたサルトルの小説『嘔吐』において、主人公ロカンタンはいままでかれを喜ばせてきたすべてのものの意味がはぎ取られ、無意味と化していく感覚に底知れない嘔吐感を喚起されました。

 かように人は無意味な「ただある」だけの世界に耐えられません。そこに何らかの意味を付与してこそ、人にとって「ただいる」ことは可能となるわけです。プロジェクションはまさにそのための方法論でもあるのです。

 それでは、人にとっての「生きる意味」とは何でしょう?

 哲学的にはしばしば、この世に生きるに値する意味などないといわれます。サルトルやカミュが提唱した実存主義においては、その現実が「不条理」という言葉であらわされました。

 人間がいくら生きる意味を見いだそうとしても、不気味な、ひたすらに「ただある」だけの世界にそれは見いだせない。それが不条理という語の意味するところです。

 それでは、その不条理な世界において、どう生きるか? 自殺するしかないという答えもあるでしょう。神などの超越的存在を盲目的に信仰することだという答えもあるでしょう。そのいずれも正しい答えであるように思われます。

 ところが、フランクルはべつの答えを見いだしました。

 フランクルによれば「人間は自分の人生の意味が何であるかと問うべきではなく、問われているのは自分自身だということを認識しなければならない」。

 つまり、人生に意味を求めている限り、それを見つけだすことはできない。意味とは人間のほうこそが自分自身で見いだすしかないのだということなのです。

 世界は本来、何の意味もなく「ただそこにある」、それだけのものかもしれません。しかし、それでも人はそこに意味を発見することができる。

 それが、ナチスによる「ショア―」、強制収容所への入所という最悪の環境のなかでユダヤ人であるフランクルが構築した実存主義哲学でした。

 わたしたちの多くにとって、砂漠をひとり放浪するような「無意味な生」は耐えがたい。ですが、人生にあらかじめ意味が付与されているわけではありません。

 多くの人はそこで虚無を見いだして絶望し、ニヒリズムに走ります。しかし、人生に固有の意味が存在しないということは、自分の手で意味を見つけることができるということでもあるのです。

 社会は過酷さを増し、生きることはよりシビアな戦いになりつつありますが、フランクルによれば、どれほど厳しい状況でも人は自分の生き方を選ぶことができるということです。

 かれは人間はその意味で自由な存在であり、たとえば過去のトラウマによって人生が決まってしまうと考えるような心理学的な汎決定論は間違えているといいます。

 かれはまた書いています。

 私たちの世代は、人間が現実にいかなる存在であるかを知るようになった点で、きわめて現実主義的である。要するに人間とはアウシュヴィッツのガス室を発明した存在であると同時に、人間はまた主の祈りやシェマ・イスラエルを唱えながら、そのガス室に姿勢を正して入っていった存在でもある。

 わたしたちは自由な存在です。外的環境はわたしたちを決定しません。わたしたち自身がわたしたちを決定するのです。社会的には決して容認されないものの、暴力に活路を見いだすのもその根源的自由の範疇ではあります。

 そして、あくまでそのような残虐なルートを拒み、遥かな高みに聖なるものをめざすことも自由です。そのことを踏まえて、この戦場社会でどう生きるべきか考えていくべきでしょう。

 第八章「朝」

 Every day I listen to my heart
 ひとりじゃない
 深い胸の奥でつながってる
 果てしない時を越えて輝く星が
 出会えた奇跡 教えてくれる

 平原綾香「Jupiter」

 ①「供犠の処女」

 本書もついに最終章に到達しました。ここまでの七章で語ってきたことに、いくらかでも共感できるところはあったでしょうか。もしそうなら、あなたも「オタク・スピリチュアリズム」について感じるところがあるのかもしれません。そうであることを願っています。

 この最終章となる第八章ではあらためて「オタク・スピリチュアリティ」の意味するところを確かめていきましょう。

 まず、ここでこれまででも何度か触れてきたひとつの作品の名前をあらためて挙げたいと思います。『魔法少女まどか☆マギカ』。2011年に発表されたこの作品は一大センセーションを呼び、その後の作品に膨大で決定的な影響をあたえました。

 『まどマギ』は「魔法少女もの」のあかるい印象を一変させるような過酷で陰惨な物語です。そして、きわめて印象的な傑作でもあります。ただ単にダークなだけのストーリーは他にもいくらでもあるでしょうが、『まどマギ』ほど整然とロジカルに組まれたプロットはめったにあるものではありません。

 『まどマギ』は異端の魔法少女ものであると同時に思索的なサイエンス・フィクションであり、暗いセンス・オブ・ワンダーと、そして怖ろしいような「聖なるもの」を感じさせる作品でもあります。日本のアニメーションシーンが生み出した最高傑作のひとつといって良いでしょう。

 この物語の主人公は、鹿目まどかという名の元気な少女です。彼女は一見するとごくあたりまえの女の子であるようにも見えるのですが、その実、稀有な「正義の心」を備えていることがしだいにあきらかになっていきます。

 しかし、彼女が「魔法少女」として活躍するところは作中でほとんど描かれません。まずは、まどかのまわりの少女たちが何らかの願いを叶えるため、魔法少女となっていくことになります。

 そのきっかけは、いかにも魔法少女ものといった展開です。まどかのまえに「キュゥべえ」を名乗る不思議な生き物があらわれていうのです。「ぼくと契約して魔法少女になってよ!」。

 この何気ないセリフにはじつはきわめて怖ろしい意味が込められていることがしだいにあきらかになっていくのですが、それは後半のこと。

 序盤の『まどマギ』は、ごくあたりまえのライトでハッピーな物語のように進んでいきます。

 それが一気に反転するのは第三話のことで、ここでひとりの魔法少女があっけなく死んでしまうのです。魔法少女になることが死と隣り合わせである事実が明かされるわけです。

 そこから物語はいっきに陰惨さを増します。いくつもの謎と秘密が解き明かされ、そのたびに非道な「キュゥべえ」のもくろみがあきらかになります。一切の希望を感じさせないストーリーは、この時代にあってはきわめて異色なものでした。

 そして、その過酷な試練をかいくぐりながら、最終話直前までまどかはその資質を花開かせていきます。

 彼女は最終的にある種の「ヒーロー」、あるいは「正義の味方」として、女神(のような存在)にまでなります。世界の矛盾と破綻を一身に背負って現世を超越するのです。

 その姿は、クリスチャンから見ると「キリストになった」ようにも受け取れるでしょう。こののちで触れる『トーマの心臓』とはまたべつの意味でキリスト教的に取れる物語なのです。

 しかし、もしかしたら、神というより女神であるという意味では、キリスト教よりも、上巻収録の第三章で取り上げた「ネオ・ペイガニズム」の女神運動に近いのかもしれません。

 じっさい、まどかは魔法少女なのであり、キリスト教の考えかたでは邪悪とみなされてもおかしくない存在です。

 ですが、とにかくまどかが大義のために自分の身を投げうったことはたしかです。まどかは神のような全能を手に入れますが、ひとりの人間としてのその存在は消失し、家族にすら忘れ去られてしまいます。きわめて印象的なクライマックスです。

 一方、大義、あるいは正義のために魔法少女になろうとするまどかを止めようとしつづけるのがほむらです。

 彼女の動機はまどかへの愛情。崇高で公的なモチベーションで動いているまどかに対し、ほむらはごく私的な理由で行動していることになります。

 まどかが魔法少女にならなければ多くの人が犠牲になるかもしれないのですが、それでもほむらはまどかを止めつづけます。彼女にはそうするしかないのです。

 まどかの「正義」と、ほむらの「愛」は対立し、対決します。そして最終的にはまどかの「正義」が勝利し、彼女は天へ昇っていくのです(しかし、劇場版ではふたたびほむらがそのまどかをひきずり下ろします)。

 あからさまに宗教的としか解釈できない結末です。しかし、キリスト教であれ女神運動であれ、固有の宗教の教義に回収できるような展開ではないこともたしかでしょう。

 じっさいのところ、このエンディングは放送当時、賛否両論でした。当然といえば当然のことでしょう。

 まどかは魔法少女であることを超えて、宇宙の女神、「アルティメットまどか」にまでなりはしたものの、ある意味では死んでしまったというか、この世から消滅して、ほむらを除くあらゆる人々の記憶から消え去ってしまったわけで、あまりにも救いのない展開ということもできます。

 はたして、まどかの自己犠牲は正当な行為と見るべきなのかどうか、さまざまな議論が巻き起こりました。

 それにしても、印象的なのは大義のために自分自身を投げうつことを躊躇しないまどかのヒーローとしての器量の大きさです。

 それは、この後に語る『新世紀エヴァンゲリオン』の悩める少年・碇シンジとは絶妙な対照をなします。

 これはジェンダーと絡めて語ることが可能でしょう。シンジが少年ヒーローの限界を示し、自分の無力さに絶望したのに対し、まどかは古典的な意味でのスーパーヒーローとして覚醒します。

 そして、彼女の宇宙的な自己犠牲は文字通り世界を救うのです。

 もちろん、先述したようにこの自己犠牲行為を間違えたものとして見る人も少なくありません。

 たしかに、まどかがあたりまえの女の子なら、世界のために犠牲になることが正しいはずはないでしょう。

 それ以外に方法はないかに見えるとはいえ、そこには重大な倫理的問題が発生していると見るべきです。

 しかし、彼女こそは本物のヒーローであり、あらかじめあらゆる手段をもちいて世界を救う覚悟を持っているとしたらどうでしょうか。

 この判断はむずかしいところです。じっさい、もしまどかが決断しなければ、ただひたすらに魔法少女と魔女の戦いの歴史が続いていったことはたしかなのです。

 まどかの自己犠牲は問題含みではあるでしょうが、それでも問題を解決する唯一の方法であるようにも思われます。

 そもそも、冷静に考えるならば、この世界には常に「正しい解決法」が存在する問題ばかりではありません。

 どうあがいても正解が存在しないなかで、それでも何らかの選択と決断によって前進していかなければならないのがこの世界の現実であるとすれば、まどかの行為の成否を問うこと自体があまり建設的な意味があることではないといえるかもしれません。

 むしろ、この、あまりにも宗教的なクライマックスに問題があるとすれば、宗教的な救済を前面に出したためについていけない視聴者が出てしまったことなのではないかと思われます。

 ある人はまどかの変身に「聖なるもの」を見たかもしれませんが、べつの人はその犠牲に苦々しいものを思えたことでしょう。

 多くの人を満足させるシナリオのむずかしさがわかる話です。

 ②「新人類は遠く」

 宗教的なモティーフを多用した作品ということで、もうひとつ、庵野秀明監督による大ヒット作にして大問題作である『エヴァンゲリオン』シリーズについても触れておきましょう。

 1995年のテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』から始まるこのシリーズは、じつに2021年の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』まで20年以上も延々と続きました。驚くべきは、その間、内容が古びず、鮮烈さを維持しつづけたことです。

 ほとんどあらゆる作品がワンシーズンごとに「消費」され、あっというまに忘れ去られていく現代のアニメーションシーンにおいて、その存在は異質です。

 『エヴァ』に関しては、そのオリジナリティの問題についてしばしば議論になりますが、その是非はともかく、結果だけを見るならきわめて独創的な仕事だったことは論を俟ちません。その存在自体が奇跡的といってもいいような作品です。

 そして、また、『エヴァ』の設定には「アダム」、「エヴァ」、「リリス」、「死海文書」、「ロンギヌスの槍」など、キリスト教の聖書正典外典に材を取ったと思しい単語が頻出します。

 物語そのものがキリスト教をなぞっているかといえば、そうではないのですが、ほとんどあらゆるモティーフがキリスト教のそれなのです。ただし、だからといってそこに宗教的に深遠な意味を見いだそうとすることにはあまり意味がないでしょう。

 作品放送当時、『エヴァ』をさまざまに「深読み」する人たちがあらわれて話題になりましたが、いまとなっては『エヴァ』の数々の宗教的なモティーフは、監督の庵野秀明みずから「衒学的」と語っているように、キリスト教を都合よく切り貼りしたコラージュであるに過ぎないと見るのが正しいものと思われます。

 したがって作中のカバラや死海文書といった要素を無理に深読みしても、特に何も出て来ないでしょう。

 とはいえ、『エヴァ』には、より深い意味で哲学的、宗教的といいたいようなところがたしかにあります。『エヴァ』はその表面的な意匠の数々の衒学性を超えて、もっと深いところで人生の「ビッグ・クエスチョン」に答えようとしているのです。

 人はなぜ、何のために生きるのか? 『エヴァ』はきわめて深刻な形で、その問いに答えていきます。その点こそが『エヴァ』の哲学性であり、宗教性であると見ることが正しいのではないでしょうか。

 ある意味で、哲学よりも純粋なもの、やがて哲学になっていくかもしれない何かが、そこにはたゆたっていたように思います。

 おそらく読者諸氏はご存知のことかと思いますが、テレビシリーズで賛否両論の衝撃的な最終回で幕を閉じた『エヴァ』は、劇場版であらためて完結します。

 しかし、それは「世界の終末」を描くきわめてショッキングな映像世界でした。庵野秀明のファンにとっては、いまさら、いくらか酸鼻なものを見せられたくらいではそこまで衝撃はないはずです。
 それでも、『劇場版』のショックはきわめて大きかったのでした。十字架のキリストのように生け贄にささげられたと思しい碇シンジ少年を囲み、地球全土には赤い十字架が突き立ち、人々は液体の入った袋のように破裂して死んでいく。

 まさに黙示録的な展開です。

 ある種、科学礼賛的な世界として始まったかに見えた作品の血まみれの結末。一本のテレビアニメとして、異常な展開というしかありません。

 しかし、それでいて、アニメの歴史を振り返ってみるなら、『エヴァ』は決して孤立した異端の作品ではないのです。むしろその連綿たる試行錯誤の系譜のなかに正しく位置づけられる「王道」のアニメだといえるでしょう。

 常に指摘されてきたことですが、『エヴァ』のまえには『ガンダム』があるのです。

 『エヴァ』に先行すること16年、富野由悠季監督によるやはり歴史的なヒット作『機動戦士ガンダム』は、一見すると『エヴァ』ほどには宗教的だったりスピリチュアルだったりするテーマと縁が深くないように見えます。

 しかし、ここでも、宇宙空間に適応し人間の秘めた可能性を開花させた存在として「ニュータイプ」なる新人類が登場し、「人類の革新」の可能性が語られます。

 高度な科学技術を誇り、宇宙空間に進出してもなお、戦争をやめられずにいる人類がさらに「進化」するひとつの方法、それがニュータイプだというのです。

 ニュータイプこそは人類の希望であり、夢です。その後、『ガンダム』がシリーズ展開したときにはニュータイプはしだいに単なる戦争の道具、優秀な兵士へと堕ちていくのですが、第一作の時点ではそこには「和解」と「救済」のヴィジョンが絶妙に示されていました。

 そして、ニュータイプ的なものと対極のところにある守旧的な人々は、「地球の重力に魂を捕らわれている」と語られるのです。

 このニュータイプ概念の背景には、先行する作品、たとえばスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』の影響があるでしょう。また、当時のニューエイジ文化も反映されているに違いありません。

 しかし、それだけではない。そこにあるものは、どうしてもわかりあえず、いつまでも争いあう人間たちの現実を超越する境地へのあこがれのようなものです。それは平たくいってしまえば「悟り」のような領域なのかもしれません。

 全人類がニュータイプとして覚醒すれば、争いはなくなり、理想の時代が訪れる。『ガンダム』の物語にはそのような夢を抱かせるものがあります。

 しかし、じっさいには『ガンダム』はついに戦争と惨禍の物語であることを超えません。人類の進化はその後の続編までも含めても夢物語として終わります。

 その意味で、『ガンダム』という作品はあきらかにスピリチュアルなものを胚胎していながら、それを完全に開花させることなく終わった例ということができるかもしれません。

 もっとも、そうだからこそ『ガンダム』は傑作として後世にまで残ったのだということもできるでしょう。

 もし、人類全体が進化してユートピアが生まれるところを描いてしまったなら、それはあまりにスピリチュアルであり過ぎ、脱落する視聴者を大量に生み出したに違いありません。

 あるいは人によってはそこには「聖なるもの」を見いだせるかもしれませんが、戦争ものとして『ガンダム』を見ていた人はついていけないと感じてしまったはずです。

 ちなみに、『ガンダム』の後、富野由悠季はよりカルトな内容の『伝説巨神イデオン』を監督しています。

 この作品はおそらくアニメ史上でも、それこそ『エヴァ』と並んで一、二を争う衝撃的なクライマックスを迎えたことで有名です。物語終盤で謎めいた「イデの力」が発動し、争い合う全人類、全キャラクターたちは全滅するのです。

 あるいはただそれだけなら他にも類例のある「全滅エンド」といえるかもしれませんが、死してたましいだけになった登場人物たちは宇宙空間を飛翔してはるか遠いべつの惑星に生まれ変わることになるのです。

 これは、『ガンダム』がついに描かなかったレベルでスピリチュアルな映像といえます。それはじつに美しい映像描写ではあるのですが、それにしても作品をエンターテインメントとして終わらせられる一線を越えてしまっている印象はぬぐえません。いったいなぜこのような結末を迎えることになったのでしょう。

 そこにはもちろん、富野監督の作家性がひとつあります。そして、また、時代性。つまりはそういう時代だった、ということもできるでしょう。

 オカルトブームがまだ収束していない頃の話なのです。このような幻想的な結末には一定の需要があったといえるでしょう。

 ですが、ただそれだけなのでしょうか。ここには人類の歴史を通底するひとつの理想主義があるように思われます。即ち、無理解と無共感を乗り越え、「わかりあう」ことへの切なる憧憬。

 『ガンダム』と『イデオン』の夢幻的な描写を通して富野監督やスタッフが描こうとしたもの、それは人間の争いつづける本性というよりは、その現実を乗り越える「ほんとうのコミュニケーション」の可能性であったのです。

 「なぜ戦争が起こるのか」という問いを突き詰めていくと、「それは人がわかりあえないからだ」という結論が出て来ます。

 そこで、人々がわかりあい、ひとつの価値を分かち合うというヴィジョンが希求されることになるのです。それは、現実には決して導き出せないかもしれない人類のテーマへの解答です。

 ここには深層的な意味でスピリチュアルな欲望が働いているといって良いでしょう。

 わたしたちは「わかりあうこと」を拒み、どこまでも争い合います。ですが、一方でその限界を超えたところに到達したいという欲求をも持ち合わせているのです。

 それは決して到達しない場所への旅であり、あるビッグ・クエスチョンへの答えの形でもあります。

 ③「この心臓をきみに」

 もうひとり、「創作作品における聖なるもの」について書くとき、どうしても触れておきたい作家があります。少女マンガの歴史にその名を残す天才作家・萩尾望都です。

 萩尾には「半神」、『残酷な神が支配する』など、「神」をタイトルに冠した作品が少なくありません。この場合の「神」とは「親」や「姉妹」の意味であり、「自分にとって絶対的な存在」を指しています。そして、彼女はテーマ的にもしばしば「神なるもの」を扱っています。

 その宗教的な性格が最も端的にあらわれた作品が、しばしば萩尾の最高傑作とも目される『トーマの心臓』です。

 『トーマ』はきわめてあからさまにキリスト教的な物語です。この物語は、当時の少女マンガとしてはあまりに異様なことに、トーマという名前の少年の自殺から始まります。

 かれはいったい何のために死んだのか? それが物語を通して描かれる「謎」です。しかし、ここでは答えを書いてしまいましょう。かれは愛する少年ユリスモール(ユーリ)の悩みと苦しみを救うためにこそ、死んだのです。

 おそらくはすべてのマンガの歴史のなかでも最も印象的な献身であり、贈与であり、自己犠牲でしょう。

 トーマはユーリに対して一枚の遺書を残します。そこにはこう記されていました。

 ユリスモールへ
 さいごに
 これがぼくの愛
 これがぼくの心臓の音
 きみにはわかっているはず

 いったいこの記述は何を意味しているのでしょうか? しばらくはわけがわからないまま物語は進んでいきます。

 しかし、ある意味では物語の冒頭で自死を遂げてしまったこのトーマこそが『トーマの心臓』のすべての中心であり、主人公なのです。

 やがて、かれはサイフリートという名の悪魔的な若者によって砕かれてしまったユーリの心を愛と犠牲で癒やすためにこそ死んだのだということがあきらかになっていきます。

 人間は壊れる。簡単に壊れる。そうだとすれば、それを治し、癒やすことは可能なのか? 萩尾は深遠なテーマに挑んでいきます。

 大江健三郎のエッセイ集に「壊れものとしての人間」があります。そこで、大江は簡単に壊れてしまう、フラジャイルでヴァルネラブルな存在としての人間について語っているのですが、まさにユーリは「壊れてしまった」少年です。

 否、より正確にはかれは「壊されてしまった」のです。かれの潔癖で神聖な世界は、悪魔的な暴力によって凌辱されました。後に残されたものはいわば世界の廃墟であるに過ぎません。トーマは命を捨ててその世界の補修を試みるのです。

 それを知ったユーリは聖書のアブラハムの物語を思い出します。

 ―――こんな話は
 まえにも聞いたな
 旧約聖書――だった
 神さまへささげる羊のかわりに
 愛する自分の息子の首を裂いて
 祭壇にまつろうとした信心深い男

 しかし、わたしたちが連想するのは、世界中の人々の罪を背負って十字架に斃れたイエス・キリストでしょう。じっさい、クリスチャンもそのような連想をするようです。

「これから読む人のために細部を明かすわけにはいかないが、この作品のメッセージは明確だ。「どんな人も愛されていい」。そのことに気づかされた主要人物の一人は、最終的に聖職者となる道を選択する。そのようなマンガは、ほかに読んだことがない。

同性愛でも異性愛でもなく、アガペー(無条件の愛)を描こうとしている。聖書的にも正しい、などと言うつもりはないが、結末を知れば、トーマの死は明らかにキリストによる十字架上の献身に通じている。純真な少年たちのすぐ近くで暗躍する悪魔的存在も、その誘惑も、聖書におけるサタンとのせめぎ合いを思わせる。」

 そう、物語の最後で、ユーリは神の信者のひとりとして、聖職者の道を選びます。ユーリはトーマの愛の贈与を受け止めることによって再生したようにも見えますし、あえて悪意に取るなら、ただ暴力のトラウマから逃げ出しただけにも思えます。

 かれはサイフリートによって悪魔の祭壇に奉げられた犠牲の羊です。トーマはそれを無私の愛によって救済しようとしました。

 しかしほんとうに愛は人を救えるのでしょうか? もしかしたら、愛こそが人を苦しめ、地獄に突き落とすその神の槌そのものなのではないでしょうか?

 『トーマの心臓』に込められた宗教的な主題はあまりにも深く重いものです。

 そして、また、『トーマ』から数十年後、萩尾はふたたび「暴力と愛」のテーマに挑戦します。それも、より深刻かつ残酷な形で。

 即ち、『残酷な神が支配する』。この作品は萩尾にとって最大の長編であり、しかもかつて『トーマ』で描いた性と聖の問題にふたたび正面から挑んでいます。

 『残酷な神が支配する』は家族をテーマにしています。一見すると何もかも幸福なある家族。そのなかで、じつは夜ごと、性暴力が繰り返されているのです。じつはこの家の父は異常人格者で義理の息子を強姦しつづけていたのです。

 ジェルミというひとりの無垢な少年が、無残な性暴力によって破壊されていくプロセスを、萩尾望都はきわめて丹念に描き出します。

 そして、ジェルミを凌辱しつづけた義父グレックが死亡した後も物語は終わりません。むしろ、そこからようやく物語が開始するとすらいって良いでしょう。

 まさに『トーマ』におけるユーリがジェルミとなり、サイフリートがグレックとなって、より凄惨に悪夢が再開したかのようです。

 ここにはトーマはいません。ユーリをあたたかく見守っていたオスカーすらいません。

 すべての登場人物は未熟で、不完全で、圧倒的な「神の暴力」をまえになすすべもなく翻弄されるばかり。グレックの圧倒的な性暴力によってジェルミのフラジャイルな人間性は徹底的に破壊され、そこからようやくストーリーは始まります。

 ここではだれひとり無垢なまま、潔癖なままであることを許されません。ジェルミはグレックの性犯罪の完全な被害者でしかありえないはずですが、そのかれにしても、加害者としての属性を背負わされるのです。

 その地獄。

 その闇黒。

 そして、そこに明確な出口はありません。ひたすらに地獄めぐりが続いていきます。

 萩尾はかつて、『トーマの心臓』でいったんは美しく救済したユリスモール少年をふたたび物語の俎上に上げ、「ほんとうに救われることはありえるのか?」と問うているかのようです。

 『残酷な神が支配する』は現代における暴力の神話です。

 『トーマの心臓』は少女マンガの歴史においておそらく最も多くの人たちに「聖なるもの」を実感させた大傑作ですが、『残酷な神が支配する』においては徹底したリアリズムによってその『トーマの心臓』の美しい世界が破壊されるかに見えます。

 かつて少年たちの美しく完結したギムナジウムの幻想を生み出した萩尾望都は、みずから神としてその夢を打ち砕こうとしたのでしょうか。

 あまりにもダークで、シリアスで、読み進めることが苦痛にすら思われるほどの作品ですが、『残酷な神が支配する』において、萩尾望都の比類ない天才はひとつの頂点を見ます。

 神をテーマにした宗教的テーマの作品としても、まず類例のない達成だと思われます。

 ④「わたしたちの完璧な世界」

 さて、そういうわけで、ここまでスピリチュアルなメッセージを孕んだアニメやマンガについていくつか語ってみました。もちろん、まだ取り上げていない作品も多いのですが、際限がないので、ひとまずここで止めておきたいと思います。

 『まどマギ』、『エヴァ』、『ガンダム』、『トーマの心臓』、『残酷な神が支配する』と並べてみて思うのは、名作と呼ばれる水準の作品はやはりきびしい現実から目を逸らしていないということです。

 まどかの「大義」とほむらの「愛」の対立を描く『まどマギ』にせよ、「人類補完計画」という名の終末的イメージを描いた『エヴァ』にせよ、人類の「ニュータイプ」への革新という夢を綴った『ガンダム』にせよ、あるいはひとりの少年と暴力の関係を見せてくれる『トーマ』や『残酷な神が支配する』にしても、そこにあるものは象徴的な意味での現実世界の出来事そのものです。

 たとえスピリチュアルでスーパーナチュラルな設定が前提となっているとしても、そこにあるものは「きれいごと」ではまったくないのです。

 これらの作品は、わたしたちにスピリチュアルな次元を垣間見せてくれる名作ぞろいなのですが、同時に、狭い意味でのスピリチュアリティに収まり切らないところがあります。だからこそ時代に冠絶するマスターピースなのです。

 一方、オタクの多くはもっと凡庸な、甘ったるい夢をも必要とします。リアルに背中を向けていても、予定調和には予定調和の魅力があるのです。

 したがって、オタクたちが趣味と実益を兼ねて描く二次創作同人誌の多くは、何らかの性暴力の物語でなければ、他愛ない甘ったるいラブストーリーです。

 そこにはあられもないような露骨な「恋愛幻想」が浮かび上がっています。それは、ある意味で「完璧な世界」だといって良いでしょう。

 シビアな現実から目を逸らした、愛で閉じた時空間。いわゆる「腐女子」層も含めて、オタクたちが作り出すこういった二次創作作品にはある種のセラピーとしての一面があります。

 幻想によって構成されたそのような「完璧な世界」にひたることで自分を癒やすのです。

 「完璧な世界」ではすべてが完璧で、瑕疵は存在しません。あらゆるものが幸福な夢に奉仕しています。それは「つまらない」かもしれませんが、安堵と癒やしに満ちた世界です。

 とはいえ、やはりほんとうの意味で「面白い」物語は基本的に「完璧な世界」が破綻するところから始まります。

 いい換えるなら、「完璧な世界」は物語的に面白くないのです。対幻想の美しくととのった予定調和を「完璧な世界」と呼ぶなら、その破綻と乱調のことは「壊れた世界」とでもいえば良いでしょうか。

 「完璧な世界」とは、そうあるべき、理想的な世界のことです。それに対して、「壊れた世界」とは、ある意味、この現実そのものだといえます。

 よって、オタクには「完璧な世界」で空虚にまどろむか、「壊れた世界」で波乱の物語を味わうかという選択肢があることになります。

 じっさいのところ、多くのオタクは、この両方を往来しているものと思われます。特に女性のオタクたちは、しばしば「壊れた世界」の過酷なストーリーに「完璧な世界」を上書きします。

 他者が生み出したストーリーに自分の願望を投射し、「ほんとうはそうであってほしい」世界を描き出すわけです。神のように、人形使いのように。

 そのことによって、初めて彼ら/彼女たちは安心します。現実逃避といえばたしかにその通りでしょう。

 作品にいのちを込めたクリエイターからすれば、その二次創作行為は安易なものと映るかもしれませんし、オタクであってもそのような行為に嫌悪を感じる人は少なくないものと思われます。

 ですが、そこにひとつの「こうであってほしい」という真摯な祈りがあるとしたらどうでしょうか。それは苦しい現実に対するひとつの抵抗です。

 創作を行うオタクが「ポップカルチャーの魔術師」であるとするなら、世界の理をねじ曲げる黒魔術(ブラックアート)だといっても良いでしょう。

 みずから「完璧な世界」を描き出し、そこに人形の家と人形たちを配し、その光景をぼんやりと眺めることで、オタクは癒やされ、救われ、そして幸福を感じるのです。

 やはり何ともセラピー的な話ですが、オタクにとっての「聖なるもの」はこのようなところにも宿るのかもしれません。

 「完璧な世界」とは、ひとつの、完全な対称性を維持しながら閉鎖した宇宙です。そこには本質的な意味での他者は存在せず、致命的なディスコミュニケーションも発生しません。

 ある意味で、そこで起こっている物語らしいものはすべて茶番で、最終的なハッピーエンドを印象づけるための演出であるに過ぎないのです。

 それは一本の物語としては他愛ない願望充足以上のものではなく、「面白くない」ものの、だからこそきわめて安定しています。

 オタクの二次創作とはある意味で何が起こるかわからないこの「壊れた世界」を修復したいという願いから始まっているものなのです。わたしはその行為をたやすく否定するつもりにはなれません。

 とはいえ、対幻想を前提とするなら、真の意味で純粋な「愛」を描くことはできないとも思います。なぜなら、報われることがわかり切っている愛は愛ではないからです。まったく報われないかもしれない献身こそが献身の名に値するのではないでしょうか。

 そのような意味で、「壊れた世界」における非対称な愛の形を描いた物語として、栗本薫の初期作品『翼あるもの』を挙げたいと思います。

 

翼あるもの1

翼あるもの1

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 これは栗本がデビュー前から書き溜めていた作品で、彼女の小説のなかでは比較的マイナーな部類に入るかもしれません。また、この小説は前編と後編から構成されており、後編では前編の出来事の裏側で何が起こっていたのかが綴られることになります。

 後編の主人公はすべての運命に見捨てられ、スターの地位から落伍し、いまは娼婦としてからだを売る若者・森田透です。

 かれはあるとき、ひとりの男性と出逢って恋に落ちるのですが、その男性はかれのため、べつの青年のところへ行って、その青年に恋してしまうのです。

 そして、そのことによってそれまで「愛」のように思われていたものが、その実、ただの「同情」でしかなかったことがあきらかになります。しかし、透はそれでもその男を責めません。

 透にとって、かれの「裏切り」は裏切りですらなく、あたりまえの、予想通りのことなのです。透は自分が愛されることがないことをわかり切っていたように振る舞います。

 かれはひたすらに愛を求めながら、同時に、自分は愛にふさわしくないと思い込んでいるかのようです。

 しかし、透はそれでも、自分を見捨てた男のために犠牲となるのです。かれのそのただの「同情」ですら、無私の愛で報いるに値するとでもいうかのように。

 感動的な展開だと思います。「壊れた世界」でだれからも愛されず、すべてに見捨てられて、それでも、なお「愛すること」を選ぼうとするその姿勢は胸を打ちます。人が「光差す方向」へ向かうとはこういうことではないでしょうか。

 栗本は審美的な意味で頽廃した「反世界小説」を愛しましたが、その実、一作家としてはデカダンスに耽るばかりではなく「光差す方向」をめざすことをやめませんでした。その意味では、きわめて前向きな作家だったといって良いでしょう。

 彼女は一貫して「壊れた世界」、たとえいっとき完璧に見えたとしても、必ず対幻想の対称性が壊れていく世界を舞台に物語を綴りました。

 「時間」を前提とする以上、すべての恋は壊れ、すべての愛は崩れ、すべての献身は報われず、すべての関係は破綻するのです。状況は可変的で、無常だからです。

 そして、栗本はその上で、人が人を愛するとは何かを問うていくのです。

 『翼あるもの』は作家栗本薫の最高傑作のひとつですが、その他の作品においてもつねに彼女のテーマは愛と献身です。同性愛を扱った作品においても、異性愛を作品においてもそうです。

 たとえば中期の傑作『猫目石』では、ひとりの若者と、少女が愛し合い、ついに互いの半身を見いだして幻想の夢にまどろむかに見えます。

 ですが、まさにそのとき、その夢は崩れ、恋人たちは永遠の白い繊手によってひき離されることになるのです。これがわたしたちが生きている現実、つまり「壊れた世界」なのです。

 「壊れた世界」では「完璧な世界」のように時間が静止したりはしません。したがって、それがどのようなものであれ、関係性は常に変化しつづけます。

 どれほど至純の愛も、必ず変わっていく。栗本薫の真骨頂は、その変化を受け入れ、そして歓喜とともに肯定するところにあります。

 彼女は決して「完璧な世界」にひきこもろうとしません。その意味で、栗本薫はどこまでもリアリズムの作家でした。一見すると彼女はロマンティックに愛の永遠を信じようとしているようにも見えます。しかし、決してそうではありません。

 彼女は辛くけわしい現実を見つめ、そして肯定しました。この世に何ひとつ変わらないものはないという、その残酷な現実を力強く認め、肯ったのです。

 それをいかにも日本人らしい「東洋的無常観」と呼ぶこともできるでしょうが、栗本の作品にただよっているのは「むなしさ」や「虚無感」ではまったくありません。

 そうではなく、彼女の作品の登場人物たちは、すべてが変わっていくことにこそ歓びと、救い、そして生きる意味を見いだすのです。

 オタクはその時々で「空想の完璧な世界」と「現実の壊れた世界」を往復します。しかし、いずれにしろ、わたしたちは現実に生きていて、その生を高らかに歌い上げるためには、現実以上に濃密な大気に満たされた世界を描き出す必要があります。

 栗本薫は少なくともその一部の作品においてはそれを成し遂げた作家のひとりだったと、わたしはいまでも思っています。

 ⑤「神の指さきに触れるとき」

 世界にも人生にも意味はない。偶然に宇宙は誕生し、無意味に人間は生まれる。それが現実なのかもしれません。しかし、それでもそこに何らかの意味を投射することはできます。

 その意味の投射をいささかセンチメンタルに「愛」と呼ぶこともできるでしょう。人は愛することによって世界を意味であふれた場所に変えていくことができるということ。

 ですが、そのための前提として、まず「愛されること」が必要になります。現代の愛着理論によると、幼い頃に十分な愛情を感じさせるケアを受けなかった子供は、露骨に死亡率が高くなるといいます。

 たとえ生きのびたとしても、そのような子供は心に「欠落」を抱え込むことになるかもしれません。アダルトビデオ監督の二村ヒトシは「心の穴」といういい方をしていますが、まさに精神に穴が空くようなものです。

 そのような「穴」を抱えた子供は、たとえ成人まで生きのびて肉体的には大人になっても、安定した心理状態を手に入れることができません。人が生きていくために不可欠な世界への意味投射に失敗しつづけることになるということもできるでしょう。

 そう、第四章の最後で触れた『ハチミツとクローバー』で描かれていたように、だれからも愛さないこと、一貫して孤独であることは多くの人にとって最悪の苦しみなのです。

 幼児期の虐待環境が人を苦しめるのは、ただ単に肉体的な苦痛をともなうからだけではなく、正常な愛着形勢のプロセスが遮断され愛着が破壊されるからでもあります。そうやって幼少の頃に十分に愛情を感じ取れなかった人ほど、強く愛されたいと願います。

 「愛されたい」――切なる願い。承認の欲求。しかし、そもそもなぜわたしたちは「愛されたい」と願うのでしょうか。

 それは、人の実存が本質的に不安定で無根拠なものであり、だれかに愛され肯定されることによってしかその根本を確立することができないからではないでしょうか。

 人はいつまでもどこまでも流動しつづけるこの無常の世界において、自分を留めるアンカーを必要としているのです。それが「愛」であり、あるいは「神」です。この世へ無根拠に生み落とされた寄る辺なき存在の絶対根拠。

 ですが、それは何と得がたく、また信じがたいものなのでしょう。『輪るピングドラム』を思い出してみましょう。そこではもはや「愛」という概念すら忘れ去られており、ただ「ピングドラム」なる意味不明の名称で呼ぶしかありませんでした。それはそもそも愛が存在しない世界の話なのです。

 そこでは、人は自分が愛に飢えていることにすら気づきません。自分が不幸せであることをさえ認識できません。ただ「何かが欠けている」。

 そのような空虚さを抱えて生きるばかりです。いったいこの問題をどのように解決したら良いものでしょうか。

 なるほど、だれもがいうように愛があれば人は救われるのかもしれません。しかし、じっさいにだれからも愛されない者は愛されないのです。

 この世の中には「持てる者」と「持たざる者」がおり、またすべて人は「愛される者」と「愛されない者」に分かたれるのですから。

 ならば、この理不尽な世界に救いはないのでしょうか。ただ絶望して死を選ぶしかないのでしょうか。わたしは、それでもなお人は自ら「光が差す方向」へ向かうことができると信じるものです。

 それは無から有を生み出すに等しい不可能な錬金術とも思われるかもしれません。ですが、そうでしょうか。

 もし、だれからも愛されなかった人間は絶対にだれかを愛することができないのだとすれば、愛の総量は減少する一方です。

 たとえ過酷な環境に生まれたとしても、愛するべき何かを、だれかを見つけだすことができる。それが人間のしなやかな強さなのだと思うのです。

 もちろん、それは容易なことではないでしょう。すべてに絶望し、ルサンチマンの闇へ堕ちていくほうがよほど容易かもしれません。ですが、この世界にはかれ/彼女に向けられた音楽があり、物語があります。

 それはあるいは同じくらい切ない哀しみを抱えただれかからのメッセージかもしれません。

 もしその歌がとどいたなら、かれ/彼女の漆黒の闇に閉ざされた人生に、初めて一条の光が差すことでしょう。それはほんとうに幽かな光の糸に過ぎないかもしれませんが、人生におけるひとつの道標になりえます。

 その、推しという名の「光の道しるべ」を通し、「光差す方向」へ向かう。

 それは、一見すると、表面的には単に猥雑で狂騒的な一つの文化に惑溺しているに過ぎないと見えるかもしれませんが、いままで見てきたように、その狂乱の文化が見た目とはうらはらに神聖なるものを胚胎している以上、内実はすでに「宗教的な生きかた」といってかまわないものになるでしょう。

 宗教的な生きかたとは、単にだれかに与えられた教理を妄信することに留まりません。理性だけでは何ひとつ示されない「世界の未規定性」をまえに、自ら「信じることに賭ける」ことです。

 滝本竜彦がその作品で書いたように、人の心、あるいはもっと深くの「たましい」なる部分は、何かの拍子にあっけなく闇に捕らわれ、無限地獄へと落ちていきます。

 ですが、その一方で、小さなことで光の方向へ向かって歩むこともできるのです。トルストイの遺作のタイトルのように「光あるうちは光の中を歩」むこと。それが内なる神とともに生きることです。

 ここまで繰り返し述べてきたように、伝統宗教は数千年の繁栄の末にいま、その寿命をすり減らしているかに見えます。そのため、人々はかぎりない「実存的空虚」に満ちた世界に放り出されることとなりました。

 このような頽廃の末世において、いったいどのようにして聖なるものを見いだすべきであるでしょうか。そもそもそのようなことが可能なのでしょうか。

 答えは意外なところにありました。この世でもっとも猥雑で暴力的とも思えるオタク的な文化のなかに、わたしたちは聖なる兆しを見いだすのです。

 知らない人から見れば、ただひたすら、自慰的に「快」を求めているだけに見えるかもしれません。違います。そこにはたしかに「聖なるもの」のリアリティがあり、病んだ心を癒やし、爛れた生を救い、断たれた関係をつなげる、そのような作用が働いているのです。

 選ばれることではなく、選ぶこと。愛されることではなく、愛することによってこそ、人は運命の桎梏から解き放たれ、果てしないルサンチマンの沼から抜け出して、十分な自由を得ます。

 しかし、ただ「選ぶこと」、ただ「愛すること」だけでは十分ではありません。その「選び」、「愛する」行為が一面で「選ばれること」であり「愛されること」であることを自覚する必要があるのです。

 愛し、愛される。贈与し、贈与される。関係性のエロスとはそういうものです。

 『「推し」の科学』には「推しとは関係性である」と記されているが、それはつまりこの種のエロスのことを表しているのだとわたしは考えます。

 序章で少し触れましたが、その昔、ミルチャ・エリアーデは人の心に刻印された象徴を見ました。

 科学的、あるいは学術的には批判の余地も多いともいわれるかれの論説がそれでもなお、いまなお熱烈に支持を受けているひとつの理由は、人間がそういった象徴の論理に惹かれる一面をもつ証左であるようにも思えます。

 エリアーデはまた、きょう、大部の全集にまとめられている幻想小説の書き手でもありました。

 あくまで一学究であり、特定の宗教の信者ではないにしても、一方でその宗教学においても文学においても、まさに宗教的な、あるいはスピリチュアルな「物語」を生きた人だったのです。

 エリアーデの天才は世界の各所に「象徴」を見ます。それは厳密な意味での科学に裏打ちされた客観的な事実というより、人が世界を認識するためのひとつの幻夢の論理に過ぎないかもしれません。あえて名づけるなら「共時の物語」でも「霊性の物語」でもない「象徴の物語」とでもいうべきでしょうか。

 かれは世界のいたる処に神聖さの刻印を見いだします。わたしたちもまた、エリアーデのように世界を見つめることはできないでしょうか。

 オタクにとっての推しとは「ありとあらゆる善きものの象徴にして集合」であることはすでに記しました。ふたたび、推しの導きに従い、光の方向を目指しましょう。

 それは第一章で語ったように、神聖なるもののイデアを内面に抱える形而上学的な生きかたに他なりません。

 世界にはいたる処に「無意味の落とし穴」が開いていて、昔日、哲学者が語ったように、あなたがその虚無へとつながる深淵をのぞきこむとき、深淵もまたあなたをのぞき込みます。そしてあなたに向かって「いったい何のために生まれてきたのか?」と囁くのです。

 かつてのあなたならば返す言葉を失っていたかもしれません。しかし、いまのあなたは「あの人に出逢うために」と答えられるでしょう。いまやあなたは愛を知っているのですから。愛されることを? 否。愛することを。

 真摯なる祈りの果てに「神なるもの」を視るとき、人を救い、癒やすのはやはり愛なのです。そうしてはらはらと雪が降る冬の銀河ステーションで、あなたは不可視の天使たちの霊妙なる合唱を聴くでしょう。

 そこには「絶対他者」としての、世界の善き半面の象徴としての「あの人」がいて、輝く神秘な道標を掲げています。

 無窮の暗天に輝く北極星のような、光で描かれた絶対にして神聖の「しるし」。あなたはその導きに従い、ゆっくりと白い路を歩みます。

 そうしてあの人に向け呟くのです。あなたに出逢うために生まれてきました。そして、あなたが生きるこの世界を愛するために。

 拒絶の痛みも、絶望の苦しみも、すでに遥か遠い過去と化しています。その胸にはただスピリチュアルな歓喜があるのみ。

 あなたは天上なるところから舞い降りた神の指さきに触れたのです。それこそが、あなたにとっての「スピリチュアリティ」です。

 ⑥「朝」

 そして、朝がやって来ます。めざめの朝です。苦しみに満ちた人生には、いまや鮮烈な喜びがともなっています。人生にはいまや北極星が輝き、あなたはそこに意味を見いだせるのです。

 とはいえ、ただの虚構、あるいはただどこまでも遠いところにいるだれかに過ぎないではないかといわれるかもしれません。

 オタクは推しを通して「癒やし」と「救い」と「つながり」を手に入れ、推しに「ありとあらゆる善きものの象徴にして集合」を見いだします。

 しかし、虚構と現実、あるいはステージと生活という「世界境界」によって分断されたオタクの世界は必然的にアイロニカルであることを避けられません。

 かれ/彼女が求めているものは、しょせんは幻影に過ぎないとも考えられます。ですが、そこからもう一歩進めてみましょう。現実と虚構を分かつ「世界境界」の意味とは何でしょう? 「ただの物語であるに過ぎない」とはどういうことなのでしょう?

 虚構は虚構であり、現実は現実である。そのことは認めるとして、それでは虚構の価値は現実より一段低いのでしょか? ユヴァル・ノア・ハラリのベストセラー『サピエンス全史』によれば、現行人類、つまりホモ・サピエンスを他の人類から分かち、繁栄させたのはまさに虚構を生み出し、共有する力です。

 ハラリによれば、七万年前の「認知革命」と言語の獲得によって、サピエンスは虚構を認識することができるようになりました。そして、あっというまに加速度的に進化を続け、ついに現在の地球規模の巨大文明を築くようになったのです。

 つまりは、人間はフィクションを信じ込むことによっていまの人間になったということができるわけです。あるいは、すべてはフィクションだとか、ナラティヴであるに過ぎないといった話は聞き飽きたポストモダン相対主義言説の亜種に過ぎないように思われるかもしれません。

 ですが、ハラリの考えかたは単なる机上の思想、空想の理論ではなく、かなりの部分が科学的に実証されているものです。人間を人間たらしめているものは、その知性というより「作家性」、あるいは「読者性」なのかもしれないわけです。

 オタク的には、この種の「何もかもみな幻想である」という思想からは、押井守の作品が思い浮かぶところでしょう。かれはその名を一躍知らしめた『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』などの作品で、世界の虚構性を暴き立てつづけました。

 たとえば代表作のひとつ『攻殻機動隊』には、なぞの天才ハッカー「人形使い」によって実在しない家族の疑似記憶を植えつけられた男が登場します。

 これは原作にもあるエピソードなのですが、押井の描写は原作よりなおいっそう残酷です。その男は「家族のために」犯罪をすら実行しようとしたのですが、その家族なるものは実在しない幻想に過ぎないのです。

 すべては一夜の夢。幻。目覚めると儚く消え失せてしまう程度のものであるに過ぎない。このエピソードからはそのような含意が読み取れます。しかし、その光景を目にしていたある男はいうのです。

「疑似体験も夢も、存在する情報はすべて現実でありそして幻なんだ。どっちにせよひとりの人間が一生のうちに触れる情報なんてわずかなもんさ」。

 たとえ疑似体験であっても、それが情報である限り現実と同じ意味と価値を持っているというのです。そして、そこから敷衍するなら、現実もまた疑似体験と同程度の意味と価値しか持っていないといっているわけです。

 あの「胡蝶の夢」の話のように、すべてはいつ逆転するかわからない。その認識を持ってそれでもなお生きていくこと、それがそういった「唯幻論」的な世界観で生きるということです。

 この発想はことのほかオタクを魅惑する何かを備えています。それはおそらく、虚構に耽溺して生きているオタクがそのような認識と強いアフィニティを持っているからなのでしょう。

 そう、ひとりのオタクであるわたしはこの男、バトーの言葉をこのようにいい換えてみたい誘惑に駆られます。「マンガもアニメも、存在する情報はすべて現実でありそして幻なんだ」と。

 とはいえ、これは危険な、人を狂気へ誘う考えかたではあります。だから、わたしはひとまずあたりまえの「世界境界」を再確認することにしたいと思います。たしかにフィクションはフィクションであるに過ぎない。それは「幻」であり、決して「現実」ではない、と。

 ですが、それが「事実」でも「現実」でもありえないと認めるとしても、そこに「真実」が宿ることは信じたいのです。

 虚構に過ぎないものに夢中になる、オタクのその「没入」はしばしばアイロニカルですが、その虚構はわたしたちに「事実」を超えた「真実」を伝えて来ます。そういうものではないでしょうか。

 「人形使い」に疑似記憶を植えつけられた男にとって、すべてが幻に過ぎなかったとしても、それでもかれが家族を愛する心を持っていたことそのものは真実でしかありえないように。

 どうでしょう、感傷的に過ぎる考えでしょうか。

 それにしても、「人形使い」同様、他者の記憶を自在にコントロールすることもできるであろう草薙素子を初めとする公安九課ほどのハッカー集団が、その疑似記憶を消せないという設定は不可解ではないでしょうか。

 おそらく、押井や原作の士郎正宗は、ここでその後、消せない幻想とともに生きるしかない男の悲劇性を強調したかったのでしょう。ですが、それはほんとうにただひたすらに哀しいだけのことなのでしょうか。無残なだけの人生でしょうか。

 孤独だった男はもはや、愛することを知っているのです。たとえ、それが最新科学が男の電脳に刻み込んだイリュージョンに過ぎないとしても、それでも男に愛した者たちの記憶は残ります。その幻想の記憶のなかに真実を見いだして生きていくことはできるかもしれません。

 かつて妖しく淫らで誘惑的な物語群を綴った作家・江戸川乱歩が詠んだように、この世のすべてが夢であり、夜の夢こそが真実であるのだとすれば、だれもその男のことを笑うことはできないはずです。少なくとも、虚構を「たましいの糧」として生きる者たちは笑いはしないことでしょう。

 笑いは無知から来るものです。真実の価値を知っているものは真実を笑いはしません。虚構は虚構に過ぎませんが、それでもその力はかぎりなく巨きい。それは人を信じられないほど遠くへ連れていくのです。

 ナラティヴの底知れない力とは、まさに『サピエンス全史』で語られていたその、人を導き、ひとつの方向へ向かわせる力です。

 もちろん、たしかに物語には人を迷妄や邪悪に引きずり込む側面もあります。オウムのような悪辣なカルト宗教の類はそれにあたるでしょう。人は物語を信じ込んだときにこそ暴走します

 。ですが、それは同時に人に〈虚無〉と対峙する勇気をあたえ、世界に意味を投射することを可能とする唯一のものでもあるのです。

 そして、その人にとっての「神聖なナラティヴ」と出逢ったとき、人は初めて夜空に道しるべとなる北極星を見つけるのです。その尊さ。

 『銀河鉄道の夜』の結末に「ジョバンニはそのカムパネルラはもうあの銀河のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです」と、主人公ジョバンニが親友カンパネルラの死を悟って哀しむ場面があります。ふつうの意味では、悲劇的でしかない場面です。

 ですが、一方で、カンパネルラは「銀河のはずれ」で生きているとも受け取れます。銀河のはずれとはどこでしょうか。それは、「不完全な幻想第四次の銀河鉄道」でしか行けないどこか、人が想像力を通してしか見ることができない場所です。

 逆にいえば、空想力という銀河鉄道のチケットを持っているかぎり、ジョバンニはいつでもカムパネルラに逢いに行くことはできるのです。

 「疑似体験も夢も、存在する情報はすべて現実でありそして幻なんだ」。その言葉を、単に夢は現実と等価であるとだけ受け止めるべきではありません。

 むしろ、もっと積極的に、人は一夜の夢にすら神聖な意味を投射することができると捉えるべきなのです。

 すべては夢。何もかも幻。あるいは、たかが現実であるに過ぎないでしょう。ですが、それがどうしたというのでしょうか。

 わたしたちには「不完全な幻想第四次の銀河鉄道」に乗るための想像力のチケットがあります。

 わたしたちはだれもが皆、「持てる者」も「持たざる者」も、「愛される者」も「愛されない者」も、そのチケットで三次元を超えて、なつかしいあの人がいる遥かな「銀河のはずれ」へ旅立つことができるのです。

 それはナルニアとも、ファンタージェンとも、ミドルアースとも呼ばれる世界であるのかもしれません……。

 しかし、どうやらいつのまにか朝はしらじらと明け切ろうとしているようです。窓から差し込んで来る光線が眩しい。それでは、カーテンを閉じてから出かけるとしましょう。

 そう、あかるい光が差す、あの方向へ。

「これは三次空間の方からお持ちになったのですか。」車掌がたずねました。
「何だかわかりません。」もう大丈夫だと安心しながらジョバンニはそっちを見あげてくつくつ笑いました。
「よろしゅうございます。南十字(サウザンクロス)へ着きますのは、次の第三時ころになります。」車掌は紙をジョバンニに渡して向うへ行きました。

 宮沢賢治『銀河鉄道の夜』より

 終章「夢の論理」

 さて――わたしの論考はここで終わりです。あなたの「たましいの冒険」もここで終着駅にたどり着いたことになります。

 いままで長々と書いて来ましたが、もしあなたが全文を読んだ上でここまでたどり着いてくれたとすれば嬉しいことです。

 いかがだったでしょうか。すべてに納得がいくわけにはいかなかったかもしれませんが、何らかの実りを得ることができたようなら、本書を記した意味があったことになるでしょう。

 この本では一貫してエリアーデを参照しながら考えを深めてきました。特に一定の学識があるわけでもないわたしなどが宗教学の大家を乱雑に引用することにご不快を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、ご容赦いただきたいところです。

 そして、もうひとり、この終章の段階で名前を出しておきたい大学者がいます。カール・ユングです。もちろん、ユングのことはご存知でしょう。

 フロイトやアドラーと並ぶ心理学の大家であり、「アーキタイプ」や「共時性(シンクロニシティ)」といった言葉を使って深層意識の世界に分け入ろうとした人物です。

 しかし、サイエンスを超えて単なるオカルトと接近しているように見えるその学問は、しばしば批判の対象となっています。エリアーデとユングは知人であり、その業績には接近するものがあるようにも思われます。

 たとえばクリスチャンとして知られる作家の遠藤周作は、エリアーデとユングの名前を出した上で、かれらの「象徴の論理」を同質の概念とみなしました。

 その考えかたは理解できます。そう、宗教学に関しても心理学に関してもべつだん専門的な知識など持っていないし専門家をめざしているわけでもない一しろうとのわたしにとっても、エリアーデやユングの学問的業績はきわめて魅力的です。

 それは、わたしたちにあたりまえのロジックとはまた一風異なる「夢の論理」を示してくれるように思えます。わたしはそこに何ともいえない魅力を感じるのです。

 ここで、最後になってわざわざユングの名前を出したのは、かれの「シンクロニシティ」の概念がわたしにとってこの世の秘密の領域を指し示しているように思われるからです。

 シンクロニシティ、あるいは共時性という概念については、必ずしも正確にではないにしろご存知のことと思います。

 「意味のある偶然の一致」を意味する共時性は、一般的な因果関係の論理では理解できないものであるとされます。もし、そこに因果を読み取ってしまったなら、それはほんとうに単なるオカルトです。

 たとえば、机からカブトムシのブローチを取り出したそのときに、窓の外からカブトムシが飛んで入ってきたなどという偶然の出来事に因果的な意味があるはずもありません。

 そこに何の意味があるにしろ、純粋に科学的には捉え切れない何かなのです。

 そう、シンクロニシティは何かこの世界の深いところを指しているしるしであるように思われるわけですが、物理的な「因果の物語」でそれを理解してしまってはいけないのです。

 いい換えるなら、つまり、シンクロニシティを捉えるということは、そこにどのような意味があるのかわからないものの、それでもたしかに意味があるように思われるという不安定な状態に耐える知的強靭さを前提としています。

 いったいそれが何を意味しているのかだれにもわからない、何らかの聖なるサイン――そういったものをそれでもなお読み取って生きていくことができるとすれば、それは「宗教的な生きかた」といえるでしょう。

 ユングの本意ではないかもしれないが、わたしはそのように思うのです。わたしにとって「宗教的なもの」と冷静な知性を両立させるための道は、どうもそこら辺にありそうに感じています。

 「シンクロニシティのサイン」は、わたしを正しく「光の方向」に導いてくれるでしょうか。

 心は光をめざし、しかしときに闇にしずむ。あくまで「光差す方向」をめざしつづけるための「聖なる道しるべ」を、これからも探して生きていきたいと思っています。

「いいかい、君、好きになるなら、一流の人物を好きになりなさい。──それから、これは、いかにも爺さんらしいいい方かもしれんが、本当にいいものはね、やはり太陽の方を向いているんだと思うよ」

北村薫『朝霧』より

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